荒川の誇る日本最長の水管橋「荒川水管橋(すいかんきょう)」小八林出口から真北、今なお財宝が眠ると伝えられる吉見町田甲「玉鉾山(ポンポン山)」に鎮守する『高負彦根(たかおひこね)神社』へ参拝。
神社の南側周辺は「ポンポン山公園」として整備されています。この季節はさすがに静か........。
西向きの社殿。奥がポンポン山の崖になっています。
では、参拝........。
田甲は旧荒川の水利とともに交通条件に恵まれ、古くから開けていた。東南の丘陵部には旧荒川筋が残り、そこへ突き出るかのように望める岩山が玉鉾(たまほこ)山である。その頂上に鎮座するのが当社である。岩山の下にかつては湊石があり、船の綱を結んだ石と伝えられ、船着き石とも呼ばれていた。上流の八ツ林には船木神社があり、その付近には冑山(かぶとやま)古墳や埼玉(さきたま)古墳群が存在することから、やはり古代の水運の要所と考えられている。そして、下流の川越市吉野地区からは縄文後期の丸木舟が出土しており、当地の発達も同時期に比定されている。
(中略)
当社の社号は、中世には玉鉾氷川明神社と改められていた。玉鉾とは、岩山の頂上の岩盤を踏み鳴らすと鼓のようにポンポンと響くところから名付けられたという。俗に「ポンポン山」とも呼ばれている。氷川明神となっているのは、氷川社の社家である西角井(にしつのい)家に伝わる「武蔵国造系図」に、遠祖天穂日(あめのほひ)命の六代の五十根彦命、一名を高負比古命とあり、当社との関わりが認められるからであろう。祭神は、味鉅高彦根(あじすきたかひこね)命と大巳貴(おおなむち)命、もしくは素盞嗚(すさのう)命となっている。いずれも出雲系の神であるが、素盞嗚命との混乱は牛頭天王(ごずてんのう)信仰の流行が当地に入ってきたことによると思われ、当社で天王様の祭りが夏祭りとして行われていた。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
ポンポン山(高負彦根神社)
縁起式内社で昔は玉鉾(たまほこ)氷川明神とも称した。
祭神は、味鉏高彦根尊(あじすきたかひこねのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)ともされるが素戔嗚尊(すさのうのみこと)ともいわれる。
社記によれば、和銅三年(七一〇年)創建と伝えられる古社で宝亀三年(七七二年)十二月十九日の太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル天平勝宝七年(七五五年)十一月二日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山とも言う。巨岩の直下二十メートルの平地は古代荒川の流路であった。吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内三社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
平成十年三月 吉見町・埼玉県
当社が鎮座する「ポンポン山」は霊地として『日本伝説』北武蔵の巻に紹介されている。この神霊地には何者かが貴重な財宝を埋めておいたが、それが盗まれないよう工夫をめぐらし、結局当社に詣でて隠し場所のお伺いを立てたところ、神のお告げは、このままこの霊地に埋めておくようにということであった。すると不思議にも、盗人が入り込むとポンポンと山鳴りがして身震いが止まらなくなるので、いかなる者も財宝を盗み出すことができなくなったと伝えている。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
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