早朝、大学時代の彼女の夢を見た、夏休みに入るので、彼女に挨拶と、彼女のいる部活の部屋に向かっている途中、部員にあって西面さん、いるよねと聞くと、キリノ常務と一緒に来た、との返事、部の部屋が地上から下がって地下一階の部屋、西面さんいると、声をかけたら、歯みがき、しながら出てきて、5分位いいと、声をかけたら、ここにいなくちゃいけないの、隣の部員に、ね、と、返事が聞こえて、それじゃと言って、別れたところで、夢が終わった。本来、彼女は教育研究会だから地上の、空手部の向かって右横の部屋、地上から下がって地下一階は、赤坂営業所時代に、赤坂の料亭、蝶や、さんのお帳場があった場所、一度、20歳前の、蝶や、のお嬢さんに頼まれて、地上から、地下2階の倉庫だろうか、4往復位荷物を下すのを手伝ったことがある場所、もう廃業している、九段営業所に転属して、新橋蝶や、さんで飲み会があり、その時に、赤坂蝶やのお嬢さんが、私の隣に、ぴったり寄り添って、御酌をしてくれて、出席者全員から、うらやましがられた、記憶があった、学生時代の彼女と、違うタイプの、やはり美人のお嬢さんだった。学生時代の宴席で、彼女がそばに来た時、私が左手で、彼女の腕を引いた、あとで、と言って通り過ぎないで、少しの間でも隣に座って、くれていれば、中川、西面さんに、ついでもらったぞ、の大声で、ふられた、と誤解し、虚しくなり、寂しくなり、悲しくなって、席を立って、その後の彼女との別れを回避できたのではないかと、AM7時半発で、日本橋小網町の小網神社にお参りに行ってきた、お参りが済んだ時に、一眼レフを持った、65才過ぎでしょうか、男性、上り龍は、下り龍はと、神社内の、お札、お守りをなど売っている人に聞いているが、返事がなく、困っている様子、あれが上り龍、あれが下り龍、と説明、鳥居に藁を束ねて、ぐるりと、円を作ってある、これはと、聞かれたが、私も、今は年に一回しか来ないので、これは初めてで説明できない、左上側に説明が、書いてあるので、それを読んでもらった、また、神社の由来、網師さんが、海で網に、稲穂がかかり、この稲穂をもって、庵で数日間滞在した、庵主の夢枕に、開祖様が現れ、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、疫病が収まるとのお告げ、文政元年、当時の名称は万福庵、のあたりで疫病がはやり、人々が、困っていた、庵主が、神社を創建して、翁を小網稲荷大神として、連日拝んだところ、疫病がおさまった、第二次世界大戦で、小網神社でお祓いをして出兵した兵隊は全員無事に帰国した、東京大空襲の時、小網神社だけは焼けることがなく、御神体をもって新大橋に避難し、同時に御神体の近くの新大橋にいた人々は災難を免れた、等を説明をした、熱心にメモを取り、神社のあちこちを写真に収め、いいお話を聞けたと、これから、水天宮で俳句の会があるので、今の話をしたいとのこと、で別れた、茂原に戻ってきたのが14時位、首都高速、京葉道路も往復順調だった、戻って来て、2時間位仮眠した、何かに、うなされているようだが、これは全く見えてなかった。
玄関の、アマリリスの鉢に、アマガエルとトノサマガエル、トノサマガエルは猫に食べられてしまったかと思ていました、トノサマガエルは4年ぶりくらい、斜め北東側のおばあさんが、野良猫の餌付けをしていて、十数匹の猫が、ご近所の庭および我が家の庭を通り路にしていたため、トカゲ、カエル、バッタ類が食べられて激減してしまい、あきらめていました、生き延びていたのを見て感激です、ご近所の方々が、猫の糞とおしっこで、花が枯れる、庭が糞だらけと直接おばあさんと市役所に苦情を申し入れても聞き入れてもらえないと、困っていました。動物愛護との兼ね合い、結局、病気でおばあさんが亡くなって解決です、ご近所の方々は、大喜びでした、一昨年のことです、色々な意見があったようです、