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「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

ザリガニの想い出

2010-02-26 | 日記
知り合いと釣りの話をしていて思い出したのだが、小学生の頃は夏休みに田舎に行くことが楽しみで、裏の川(荒川の支流)でよく釣りをしたものだが、それ以外にも田んぼの用水路などで「ザリガニ釣り」もよくやったものです。
スルメが手に入れば最も良いのだが、無い時は蛙などを餌にして日がな一日ザリガニ釣りをし、沢山のザリガニを捕まえたのだが、小さなザリガニは放してやり、「マッカチン」と言われる大型のザリガニばかりをバケツに一杯捕ったものです。
大きなザリガニばかり残したのは、この後茹でて食べるのが楽しみで、日本では余り食用にはしないようなのだが、中国やヨーロッパでは良く食べられていて、味はエビと全く変わりありません。
当時はまだ食糧事情もよくなかったのだが、田舎の人はタニシやドジョウは結構食べていたようだが、ザリガニは捕獲が面倒だったようで余り食べなかったようです。
このときも弟は殆どザリガニ釣りはせず、茹で始めると臭いに吸い寄せられるように寄って来て大きな顔をして食べるのだから頭にきますが、周りに親戚の人もいるのでじっと我慢するしかなかったのです。
裏の川でウナギやナマズも釣れるのですが、こちらは料理をする人がおらず、釣れても糸を切って川の放すだけで、今考えるともったいない事をしたものですが、今思えば残念な事ではあるが、当時は農作業が忙しかったので、手間のかかる料理などする暇が無かったのでしょうが、何時も私が行くと、お婆さんが叔父さん(息子)に「○○が来たからうどんを打ってやれ」と言ってうどんを打ってくれたものですが、これ以外にも、私がトウモロコシが好きなことを覚えており、私のためにだけのトウモロコシを作ってくれていたもので、従兄弟達からは「ウッカリ手をつけるとお婆さんからこっぴどく怒られる」と言われたもので、お婆さんの存在は私にとって重要な役割をしていたのです。
このお婆さんは「優しさの中にも厳しさがある」と言う事で、その後の私の人格形成の基礎になっており、ザリガニやトウモロコシなどを見るとお婆さんを思い出すのです。
99歳で亡くなってから40年近くが経つのだが、正直な話「タダの一回もお墓参りをしていない」のですが、だからと言っておばあさんの事を忘れたことはなく、折に触れてお婆さんのことを思い出すので、お婆さんは「私の心の中では今でも生きている」と言ってよいでしょう。
出来る事なら「ザリガニ捕りに夢中になっていた頃に戻りたい」と思うのだが・・・・。
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百合さんチャンと読んでくれてるんだね

2010-02-24 | 日記
今回もまたこちらの方に書かせて貰いますが、正に「古き良き時代」と言うことが出来るのではないだろうか。
当時は中卒で働きだす人も珍しくない時代で、大学に行けるのは一部の裕福な家庭の子が殆どで、現在と比べれば一見「貧しい時代」のようにも見えるのだが、現在のような「効率第一主義」とは違い、ある程度精神的な余裕を持てる時代でもあったのです。
タダ、給料自体はそれ程高くなく、現在とは比べ物にならないかもしれないが、その当時は「今あるような便利な物は殆どない」と言う事で、給料が少なくても何とか生活が出来たのです。
ここでその典型的?な例を書いてみると、私が中学1年の時だったと思うのだが、当時はテレビ放送が始まって間もない事もあって「テレビのある家は殆どない」と言う状態の中で、まったくの偶然から我が家にテレビがやってきたのです。
ある酒造会社が販売促進のためにつけた「三角くじ」の賞品が「14インチのテレビ(当然?の事だが、カラーではありません)」だったのだが、売れ残ったお酒に付いていたくじに「当たり」が残っており、幸運にもテレビを手に入られたのだが、その値段は驚くなかれ「14万9千円」で、「当時の大卒初任給の1年分」にも匹敵する程の額だったのですから大変ですが、余りピンと来ない人もいるだろうが、当時(1955年、昭和30年)の郵便貯金の預け入れ限度額が「20万円(現在は1000万円)」だった事と比べればその値段の高さがわかるでしょう。
パソコン、携帯電話(固定電話も似たようなものだったが)、CD、ビデオ、テレビゲーム・・・・と、殆ど何もない時代だったのでお金もそれ程いらず、「貧しいながらものどかな時代」ではあったのです。
これは余談なのだが、この頃までは「子供もパチンコが出来た」と言うことを知っている人は少ないでしょうが、私の家の近くにパチンコ屋があり、私もよく行ってお菓子を稼いだ物ですが、ある日突然「今日から子供はダメダ!」と言われた事を覚えています。
卵が一個15円、バナナが一本30円で、ラーメンは一杯30円と言う時代だったのですから、今の人には想像するのは難しいかもしれませんが・・・・。
このように、今は殆んどなんでもお金を出せば買えると言う「一見豊かな時代」ではあるが、その影に「お金がなければ暮らしてゆけない」「雇用に不安を抱える」など、「人間らしい?生活が出来ない」と言う問題が潜んでいる事に気が付かなくてはいけないのだが、これは「科学技術の発達による副産物(副作用)」で、何事も「良い事ばかりではない」のです。
「災い転じて福となす」と言う言葉があるが、この反対もある事に注意する必要があるだろう。
このように考えてゆくと「私は良い時代に生まれた」と言うことも出来るかもしれない。
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私の体(健康)に関する話

2010-02-21 | 日記
私は生後1年くらいで一度死に掛けたことがあるらしい。
その時打った注射の跡が今でも左足の太ももに残っているのだが、それ以後は大した病気もせず、小学2年の時には右足の裏に膿がたまり手術をした事があるのだが、それ以後は父と母の関係が極度に悪くなった事もあり、「私の体のことなど誰も心配してくれない」と言う状態になり、5年生の時に「椎間板ヘルニア」と思われる状態に陥り「踵を突いても腰に激痛が走る」と言う状態でも病院にも行かず、そのままずっと我慢をしていたのだが、幸い?な事に「2ヶ月ほどで自然治癒?」したのだが、それから20年余り経って再発?するのであるが・・・・。
更に、中学に入ってからも「40度近い高熱をおして学校へ行く」と言う離れ業?をして先生に怒られたり、花火を悪戯していて左手小指の先(爪の三分の一ほどだが)を吹き飛ばした時も病院に行かずに治したりと、何ともむちゃくちゃな事をしてきたのだが、元々が丈夫な体だったのだろう、特別何も起きずに治ってしまったのです。
学校を辞めた後も同じような状態で、普通であれば医者で治療してもらわなければいけないような傷も「医者嫌い」な私は「自分で治療」して済ませてきたのです。
この事は「風邪(インフルエンザ)」にも当てはまり、「風邪で寝込む」と言うことも、68年近い人生の中で「1回だけ」と言う状態で、40度近い高熱でも寝込むことはなく、歯医者以外では滅多に医者にかかることもないのですが、ある意味で「運が良い」と言うことも言えるでしょう。
35くらいの頃だったと思うのだが、会社で仕事中に原因不明の痛みに襲われ、会社を早退して家に帰ったのだが、医者嫌いの私は「そのうち何とかなるのでは?」と思いベッドで横になっていたのだが、余りの激痛で失神してしまったようで、1時間余り気を失っていたようだが、その後気がついたときは痛みもすっかり治まっていたのですが、その後トイレでおしっこをした時に「石(結石)」が出てきて、激痛の原因が「腎臓結石」だった事がわかったのです。
出てきたのは、「米粒の半分位」の石が1つと、後はゴマ粒くらいの石が数個で、良くある「腎臓結石の苦しみ」も少しで済んでしまったのです。
また、55くらいの時の事だが、朝起きようとした時猛烈な目まいに襲われ、立つことも難しい状態だったのだが、壁に手をつきながら何とか立ち上がり、必死の思いで会社に行こう(病院に行くことなど念頭にないのですからおかしな話ですが)と車に乗り、家から300メートルほどのところで「猛烈な吐き気」に襲われ、あわてて車から降りようとしたところ、驚くなかれ「目まいも吐き気もウソのように治まる」のです。
後になって考えて見れば、血栓が脳の血管に詰まる「脳梗塞」になっていたらしいのだが、無理に動いた事で「血栓が取れた」のではないだろうか。
しかし、「結石」「血栓」ともに小さかったから良かったので、これが大きかったらどうなっていたであろうか。
正に「運が良かった」と言えるのではないかと思っています。
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懐かしい学校の名前が新聞に載っていた

2010-02-19 | 日記
その学校の名前は、東京都中野区立江古田小学校。
別に悪い事件などで新聞に載ったわけではなく、久しぶりに見る学校の名前に懐かしさがこみ上げてきたのです。
この小学校がある地域はかなり裕福な家庭も多く、私の同級生には「大地主(昔の庄屋)」の家の子もおり、卒業してかなりたってからの話ではあるが、住んでいた大きな茅葺き屋根と、「時価数十億」とも言われる土地を、「文化施設として利用する」と言うことを条件に中野区に寄付しているのです。
他にも裕福な家庭が多かったのだが、その一方で貧しい家庭も沢山あり、高校に行くことも出来ず「中卒で就職」と言う子も少なくなく、歩いて5分ほどのところには「朝鮮人」と言うものもあり、この近くには近寄る人は少なかったのですが、私は何度も配達に行ったことがあり、その悲惨な姿を目の当たりに見ているのです。
当時は「朝鮮人」と言うだけで商品を売ることを拒む店も多く、「配達などとんでもない」と言う状況の中で、私の父は商品は売るものの「配達は全て私がする」と言うことになっていたのですが、一部のお店では「配達はするが近くの道路まで」と言う事で、よく道端に商品が放置されているのを見たことがあるのです。
そして、この「悲惨な朝鮮人の姿」を見たこともその後の私に大きな影響を与え、日本人の物の考え方に「嫌悪感を抱く」と言うことにもなっているのです。
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私と別れた妻や息子との違い

2010-02-18 | 日記
私と別れた妻や息子との違いは、私が「暗記物に弱いが応用問題には強い」のに対し、妻や息子はその正反対で「暗記物には強いが応用には弱い」と言うこと以外にも、私が「周りに影響されにくい」のに対して、「周り(都合の良い部分だが)に直ぐ影響される」と言う特徴を持っている。
更に、「友人」と言うものに対する考え方も大きく違っており、「殆ど全て」と言ってよいほど似ておらず、夫婦の会話はもとより、親子の会話さえ難しいのです。
さて、こんな事を書くと「私の方にも問題があるのでは」と言う疑問も生じるだろうが、私にも問題がある事は否定する気は全く無いのだが、私に言わせれば「水と油」「住む世界が違う」と言うような根本的な部分に違いがあるので、「対応の仕様がない」と言うのが正直な話なのです。
私は高校中退で、妻は高校を卒業しており、息子は大学を出ているのだから、通常であれば私がコンプレックスを抱くはずなのだが、実際には私ではなく「妻や息子が私に対してコンプレックスを抱いている」と言う事で、私の何気ない一言に対しても素直に聞く事が出来ず、コンプレックスに基づいた受け取り方をされてしまうのですから「会話」など全く成立しないのです。
息子は、半分私の血を受け継いでいるはずなのだから「多少は私に似ていても・・・・」と思うのだが、現実には「母親にはそっくりだが、私と似ているところを探すのが難しい」と言うほど似ておらず、「本当に俺の子なの?」と悩んでしまうほどです。
金銭的にも母親そっくりで、将来に対する備えを優先させる私とは正反対なのです。
今の息子は、かつて私が自分の家を持とうと思い始めたとき(29で考え始め、31の時には建てていた)と同じ年齢になっているのだが、母親と同じ「浪費癖」がある息子には無理な話であろうが、こればかりは私がとやかく言う筋合いでもなかろうと思って黙っています。
「黙っています」とは書いてみたものの、現実には「話しても無駄」と言うのが正直な話なのですが・・・・。
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百合さんのコメントへの返事

2010-02-17 | 日記
この先生も今では80歳くらいになっているだろうから、元気でいてくれると良いのだが、高校を中退した私にはその後の消息はわからないのですが、今から半世紀以上も前の話なので、このような先生は殆ど絶滅状態ではないだろうか。
言わば「古きよき時代の話」であって、今のように、無駄を排除して効率性ばかりが求められる時代にはとても無理な話かもしれません。
今考えてみれば、このような採点をするにはかなりの時間が必要で、本来の先生の仕事以外にも多くの雑用を受け持つ状態ではとても無理な話なのだが、別な考え方をすれば「これぞ早稲田の真髄」と言うことも出来るかもしれません。
また、私は授業を受けたことは無いのだが、ある先生は「大学教授」と言う肩書きを持ちながら「大学生を教えても面白くない」と言う理由で高校生を教えていた先生もいたのですが、あるレベル以上の学校であれば同じような教育をしているのではないだろうか。
この他にも、政治経済の担任の先生は「新聞をよく読んでおけヨ!」とよく言っており、外国の首相や大統領が代わると直ぐに我々を質問攻めにし、「新聞の中からも出題するからナ!」と脅かす事もしばしばだったのだが、「読むのは日経か朝日で、読売はダメだ!」とも言っていたのですが、この事は後になっても同じようなことを何度か言われた事があるのです。
20代の頃にはある銀行の支店長から「融資に迷った時は経営者の読んでいる新聞で決める」と言う事で、「日経と朝日を読んでいれば融資をするが、経営者が読売を読んでいたらダメ」だと言い、中学でPTAの役員をしていた時には、他所の地区の学校から転任してきた先生から「朝日の購読率が高い地区は生徒の成績も良いが、読売の購読率が高い地区は成績が低い」と言う話も聞き、また「朝日の購読率が高い地区はNHKの視聴率も高い」と言う傾向があり、「これらの事が総合して生徒の成績に影響しているのではないだろうか」とも言っていたのです。
おかげ様で私は中学生でこのように新聞を読む習慣が身に付き、それ以後新聞との付き合いが続いているのだが、これからも可能な限り新聞を購読し続けるつもりですが、読売だけは頼まれてもごめん被ります。
インターネットが発達した事により「情報はネットで得られる」と言う事で新聞が読まれなくなっているのだが、私は「インターネット亡国論」を唱えたくて仕方ありません。
最後に、次のような蛇足を添えて終わりにします。
大手企業などで言われている事に「一に日経、二に朝日、三・四が無くて五に読売」「日経は横綱で、朝日は大関、そして読売は十両」と言う言葉、私も同感だと思うのだが・・・・。
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子供とその母親(妻)の話  ③

2010-02-14 | 日記
さて、離婚するに当たり子供をどちらが引き取るかと言う問題が起きるのだが、最終的には私が引き取る事で話をつけることにしたのですが・・・・。
子供の将来を考えれば最も良い選択だと思っていたのだが、最近になってそのことに対して少々疑問もわいてきているのです。
小学生や中学生の頃は「俺も父さんのようになれるかなあ・・・・」と言っていた息子だが、高校に入る頃から徐々に母親に似てくるようになり、大学に入るとより顕著になり、社会に出て結婚した現在では「母親そっくり」と言ってよいほど似てしまい、最近では「俺の子供?」と言いたくなるほど私に似ていないのです。
私の場合はどちらかと言うと「一を聞いて十を知る」と言うタイプなのだが、妻と子供は「十を聞いて一を知る」と言うタイプなのだが、十を知ってもらおうと百教えると「話を曲解して何も理解できない」と言う困った問題が起き、最終的には「誤解だけが残る」と言うことになるのですから最悪でしょう。
そして更に困る事は、妻も息子も「私に対してコンプレックスを抱いている」と言うことがあり、ごく普通の会話をしていても、自分がコンプレックスを抱いている事に関する話になると「自分はバカにされている」と言う「被害妄想」に陥ってしまうのです。
私自身も、高校を中退したことにより「コンプレックスの塊」のようになってしまい、周りの何気ない会話にも神経を尖らせていたのだが、21歳の時に偶然出合った大学の心理学の教授の一言が私に大きな転機をもたらし、それ以後はコンプレックスを余り意識する事もなくなり、その結果「心に余裕が出来る」と言うことにもなり、仮に相手が悪意を持って言った言葉にも「冗談として聞き流す」と言うことも出来るようになったのです。
これは「金持ち喧嘩せず」と同じ事で、心に余裕があれば、悪意を持つ相手にも「可哀相な人だネ!」と思う事も出来るだろうが、コンプレックスがあるとそうもゆかないのです。
私のブログを読んでいる方はわかると思うのだが、私の根幹には「自分の信念」と言うものが厳然と存在し、基本的には「周囲の意見に惑わされない」と言う事で、「時流に迎合する」と言う事は少ないのだが、妻と息子はその正反対で、「簡単に周囲の意見に迎合する」と言う性質があり、そこには「自分」と言うものが存在せず、私から見ると「根無し草」にしか見えないのですが・・・・。
このようなわけで、妻とは別れたのだから当然の事なのだが、「妻とそっくりな息子」とも意思の疎通が難しく、言わば「孤立状態」になってしまったのだが、これも天が定めた「天命」と諦めなくてはいけないのかもしれない。
これも、選りによって母方のおじいさんの一周忌の命日に生まれ「おじいさんの生まれ変わり」と言われた事の報いなのかもしれず、生まれた時点で現在の自分が決まっていたのかもしれない。
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子供とその母親(妻)の話  ②

2010-02-11 | 日記
息子が小学生の頃は何かにつけ妻が学校の役員を引き受けていて、私は余り表に出ないようにしていたのだが、小学校卒業を控えて突然私に「中学のPTA本部役員」になってくれと言う依頼が舞い込み、始めは強く断ったのだが、ある先輩役員からの執拗な要請を受け仕方なく引き受けることになったのですが、それが妻にとっては面白くなかったのです。
元々が「目立ちたがり屋でちやほやされたい質」の妻にしてみれば、「自分がやりたい」と思っていたことを私がすることになるのですから面白くなかったのでしょう。
私とすれば軽い気持ちで引き受けたのだが、先輩役員から聞いていた「PTAのお手伝い程度」と言う話とは裏腹に「1年で監事、2年で幹事、3年では会長か副会長」と言う予想外の話で、「話が違うじゃないか!」と私が講義すると「俺たちも同じように騙されたんだよ」と言う話で、「本当のことを話すと引き受け手がなくなるので毎年同じ手が使われている」と言うのです。
本部役員の数は「3人の学年が2つ、4人の学年が1つで、計10人」と言う体制なのだが、各学年に1人女性が含まれ、基本的には「男が会長になる」と言うことになっていたのですが、私と同じ学年のもう一人の男性は、始めから「非協力的」で、結果的に私が前面に立たざるを得なくなるのですが、私の知らないところで「3年になったら私が会長で決まりだ」と言う話が密かに流れていたのですからたまりません。
1年の監事のときは未だそれ程でもなかったのですが、2年で幹事になると何かに付け発言する機会が増え、地区役員が集まった会議などではどうしても発言せざるを得なくなるのだが、その会議があって翌日にはきまって「何であんな余計な事を言うのよ!!」と言う叱責を妻から受ける事になるのです。
妻は会議に出ていないのだから話の内容など知る由もないのだが、会議に参加した地区役員の中にいる「幼馴染み、親戚、知人」などからの話(誹謗中傷)を聞いて一方的に決め付けてくるのですからたまりません。
更に「会長候補と言われていい気になっている!」だとか「先生たちにちやほやされていい気になっている!」などと言う言い掛かりまでつけてくるのですから、これにはさすがの私も参ってしまい、何とか会長を辞退しようと努力はしてみたのだが、2年の10月ごろになると、非公式な話ではあるが「会長を引き受けて欲しい」と言う要望が現会長や校長、教頭先生などから出るようになり、「最早逃げる事は不可能」と言う事態に追い込まれ、「会長を引き受ければ家庭が崩壊する」と言う事は避けられない事なので、「それならばその前に離婚をしてしまおう」と考えるようになり、「正式な会長就任要請」が出る前に離婚を決意したのです。
始めは妻も別れることを嫌がっていたのだが、結婚当初から何度となく、まるで脅し文句のように「別れる」と言うことを妻の方から口にしていたので、最終的にはしぶしぶ受け入れたのです。
「話し合いで何とかならなかったのか?」と思う人もいるだろうが、妻の姉たちを立会いに話し合い「これからは気を付けなす」と言う約束を何十回となくしたのだが、その約束は全て反故にされ、最早話し合いの余地は無かったのです。
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子供とその母親(妻)の話  ①

2010-02-09 | 日記
これまで何となく書こうと思いながら書き忘れていたことに「一人息子とその母親」に関する話があります。
37歳の時、会社に出入りしていた保険の外交員の紹介で結婚をすることになるのだが、これがとんでもない結末を迎える事になるとは夢にも思わなかったのです。
結婚した相手は地元生まれの人だったのだが、世間一般でよく言うところの「話せばわかる」と言うことが全く通用せず、話せば話すほど誤解が深まり、最終的には、子供が中学2年の3学期に別れることになるのです。
私が今住んでいる町はおかしな町で、私ばかりでなく、地元の人と結婚した人の多くが同じ悩みを抱えており、単に「田舎だから」と言うこととは全く違うのです。
戦後間もなくまではかなり栄えていたらしいのだが、その頃の栄光が忘れられず、何かと言うと昔の自慢話が始まり、商店にしても「殿様商売」をしていて、他所から入ってきた人は何十年たっても「よそ者扱い」を受けなくてはいけないのです。
結婚した相手がこんな町で生まれたのだからたまりません、私より「親兄弟、幼馴染の方が大事」と言う事で、「俺は一体お前のナンなのだ!」と良くけんかになったのですが、都合が悪くなると「だんまり戦術」に入り、放って置くと2日でも3日でも一言も口を利かなくなるのです。
そして、パートで働いて得たお金も「私が働いてもらったお金だから半分は私のもの」と言い出す始末で、水道光熱費・衣食住は全て私の給料で賄われていることなど全く考えないのです。
更にそれに追い討ちをかけるように、自分の夫である私の「陰口」をあちこちに言いふらしていたのですから驚きです。
最終的にはこの事が原因で別れる決意をすることになるのだが、そのことは次で書くことにします。
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馬鹿げた話

2010-02-08 | 日記
6年生の夏休みの頃だったと思うのだが、普段は一人で知り合いのおじさんに釣りに連れて行ってもらっていたのだが、一度だけ弟がついてきたことがあったのです。
別に私が誘ったわけでもなく、普段一緒に遊ぶ事など全くなかった弟が、釣り場ではなぜか私について回っていたのだが、この事が後になってとんでもない話になるのです。
この日は釣り場を移動する際、土手の草の中を歩く事になったのだが、私は前を歩いていて気がつかなかったのだが、後ろをついてきた弟は少し草むらにはいったようで、その時に草のタネが目に入ったようなのです。
その時は特別何も言わなかったので、私も知り合いのおじさんも全く知らなかったのですが、1ヶ月か2ヶ月経った頃だと思うのだが、突然弟が「目が痛い!」と言いだし病院に行ったらしいのだが、診察の結果「まぶたの裏で草のタネが芽を出していた」のだそうですが、その責任を私に押し付けようとするのです。
私が無理に誘ったわけでもないのに「お兄ちゃんがあんなところに連れてゆくからこんな事になった!」とは。
全く言い掛かりもはなはだしい話で、これ以後はどんなに頼まれてもつれてゆく事はしませんでしたが、このことを根に持った弟にはこの後も悩まされ続けることになるのです。
中学生になると別の人に「江戸前のはぜ釣り」に連れて行ってもらうようになるのだが、釣りから帰って来ると、私の本がゴミ箱に捨てられていたり、鉛筆の芯が全て折られていたりと、それはひどいものでしたが、そんなことで負けるような私ではなかったのですが、今考えてみれば、弟は私と違って「女中っ子」だったので、我が儘なのは仕方ない事だったのかもしれないのだが・・・・。
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