不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

私のお腹はゴミ捨て場?

2010-03-30 | 日記
あらかじめお断りしておきますが、くれぐれもこれから書くことは真似をしないでください。
万一真似をするのであれば「結果については自己責任で」と言うことを忘れないでください。
さて、常識的?に考えれば「賞味期限が切れたものはゴミ箱へ」と言うことになるのだろうから、この方程式?を当てはめれば「私のお腹はゴミ箱」と言うことになってしまうのである。
何故そのような事になるのかと言うと、私が食べる物を買いに行くのは「週に一度か二度」で、買いに行く時間は「閉店近くで半額シールが張られる頃」なのである。
つまり、買った商品の多くは「半額シールが張られている」と言う事で、売れ残れば「生ゴミ」になる物ばかりなのです。
実際には「一日や二日は大丈夫」と言って食べる人もいるだろうが、私の場合は物にもよるのだが「一週間以上過ぎている」と言う事も珍しくなく、キムチでは「半年以上」、納豆は「二ヶ月」、ヨーグルトは「一ヶ月」・・・・と、普段口にしているものは「90%近くは賞味期限が切れている物」ばかりなのです。
しかし、このようなことを可能にするには「優れた目と鼻と舌」が必要で、誰もが持ち合わせているわけではありません。
腕の良い板前や料理人は「目で見て材料の良し悪しを判断する」と言うように、私もまず目で見て異常が無いかを確認し、次に匂いに変化が無いかを確認していますが、それでも判断を間違える時もあり、最終的には「味(舌)で判断」と言うことになるのですが、言うは易しで、実際はそれ程簡単なものではありませんが、私には「持って生まれた才能」として持ち合わせているようなのです。
こんなわけで「毎日賞味期限が切れてものを食べている」にもかかわらず「下痢も食中毒も起きた事が無い」のではあるが、「万に一つ」と言う事も考えおかなくてはならないのだが、万一何かあったとしても「自己責任」だと言う事を忘れてはいけないのだが、時にはお店に文句を言う人もいるようで、これでは「クレーマー」の仲間に入ってしまうので注意が必要だろう。
さて、普通であれば捨てるはずの物を食べている事が「災いしている部分」が無いわけではないのだが、それは「捨てるのがもったいない」と言う意識が強く働いてしまうことで、食べ物が乏しかった時代に育った者の宿命かもしれない。
食べ物に困っていた時代では「食べ物を残す」などとんでもない事で、ましてや「捨てる」などとても出来ない事で、結局は「お腹の中に捨てる」と言うことになり、十分に食べる物がある時代では「食べ過ぎ」と言うことになり、「体(内臓)脂肪の増加」と言うことになってしまうのである。
今ウエストは95センチあるので、正に「メタボリックサイズ」ではあるが、幸いなことに、血圧・コレステロール・中性脂肪、肝機能ともに異常なく、「ウエストサイズだけメタボリック」なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私は本当に日本人?  ②

2010-03-28 | 日記
昨日少し書き忘れたことがあるので書き足すことにします。
私の食事はパン食が中心なのでコーヒーを良く飲みますが、和食の時でも「味噌汁よりコーヒー」と言った感じで、1日に5杯くらいは飲んでいるのですが、別に味噌汁が嫌いなわけではなく、「自分で作るのが面倒」と言う事が大きな原因かもしれませんが・・・・。
次に、日本人にはおなじみの「お茶」であるが、これも特に飲みたいと言う気持ちにはならず、「お茶よりコーヒー」と言った感じで、ウーロン茶を飲むようになってからは「日本茶よりウーロン茶」と言った感じになってしまった。
コーヒーやウーロン茶であれば毎日飲んでいても飽きる事が無いのだが、日本茶や麦茶は直に飽きが来てしまい「飲みたい」と言う気が起きなくなってしまうのです。
「朝はお米を食べないと力が出ない」とか「パンは腹持ちが悪いから嫌だ」と言う人がいるが、私は全くそのような事がないのですからおかしな話です。
漬物に関しても少々?おかしいようで、最近多くなってきた「浅漬け」は好きになれず、少し酸味が出てきたくらいからが食べごろで、賞味期限切れで半額になった物を買ってきても直ぐには食べず、朝鮮漬け(キムチ)などは「冷蔵庫で半年放置」などと言う事も珍しくなく、発酵が進みすぎて「舌にピリピリ来る」と言う状態でも美味しく頂いていますが、これが私の健康のもとになっているのかもしれません。
「健康のもと?」と思う人もいるだろうが、「日本の漬物はヨーグルトと同じ」と言われているのだが、「漬物が酸っぱくなる」と言うのは「乳酸発酵が進んだ」と言う事で、ヨーグルトが「動物性乳酸菌」の働きで出来るのに対して、漬物の方は「植物性乳酸菌」の働きで酸っぱくなるだけの違いで、腸内での働きに違いはないのであるが、これはタイトルと余り関係ない話になってしまった。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私は本当に日本人?

2010-03-27 | 日記
太平洋戦争中に生まれているので「外国人の子と取り違えた」と言う事は有り得ないだろうから「純粋な日本人」と考えるべきなのだろうが、「物の考え方」「食生活」と言う部分から見ると「本当に日本人なの?」と考え込んでしまうことがある。
バングラディシュの人、日系ブラジル人二世・三世の人、中国の人などに「あなたは日本人らしくない」と言われた話は過去にも書いているのだが、このように日本人離れした物の考え方は一体誰に影響されたのであろうか。
「三つ子の魂百までも」と言う言葉があるように、幼い頃にある程度形成されていたのだろうが、終戦当時満三歳になったばかりであるから「外国人との接触」と言う事は全く考えられず、小学生時代にも「外国人とあった記憶は無い」のである。
しかしながら・・・・、である。
ある程度はっきりした記憶が残っている小学5年生頃にはすでにその前兆は現れており、姉たちからは「変わり者」と言われ、何かにつけて「異端児扱い」をされていたのです。
「外国人とあった記憶は無い」と書いたのだが、よくよく考えて見ると、家の近くには「朝鮮人」があり、かなり「在日朝鮮人」との接触もあり、同級生には「アメリカ人との二世」がいたことが影響しているのかもしれないが、それ以前にも何かあったのだろうが、それが何だったのかは全く不明である。
食べる物にしても、小学生の頃から「天麩羅にソース」と言うほどソースが好きだったのだが、親兄弟(7人)は「醤油派」が殆んどで、食べ物の好みも私だけかなり違っていました。
タダ、「天麩羅にソース」と言うほどのソース派ではあるが、「カレーにソース」と言う事はありません。
現在の私は「パン食」が中心で、日本食も嫌いではないのだが「作るのが面倒」と言う事もあるのだが、正直な話「無くても不自由はしない」と言う程度のレベルなのです。
これは以前にも書いているのだが、13日間も上海にいながら「一度も日本食を食べたいと思わなかった」と言うほど日本食にこだわりが無いのです。
「せっかく上海に行ったのに何で日本食?」と言うのが私の基本的な考えで、出来得るなら「夜道端で作っている物が食べたい」と思ったのだが、「不衛生だからダメ!」と言われ諦めるしかなかったのですが、今でも「機会があったら食べたい」と思っています。
高級な「海鮮料理」も良いのだが、それより「一般庶民が食べているもの」の方に興味が行くのは「私が貧乏人だから」かもしれないが・・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知らぬが仏

2010-03-21 | 日記
多くは「哀れみあざける」と言う意味で使われることが多いのだが、科学技術が発達した現代では、本来の意味(知ればこそ腹も立つが、知らざれば仏のように平穏な境地でいられる)で使う必要が有ると思うのだが・・・・。
インターネットの発達で「情報化時代」と言われるようになり、その結果として「瞬時に世界中の情報がわかる」と言うことにはなったのだが、考え方を変えてみると「知ってしまったための不幸」と言う事も起きてくると思うのだが・・・・。
私が子供だった頃は、ラジオと新聞が主な情報源で、入ってくる情報は極めて少なく、自分たちがどのような状況に置かれているかなど、比較対照するものも少なくそれ程気にもしてはいなかったのである。
其れ故か、今あるような便利な物など何も無いと言うのに、「自分たちは貧しい(不幸だ)」などと言う考えなど殆んど持つ事もなく、正に「知らぬが仏」の境地であったのだろう。
「格差」と言うものも、今より当時のほうが大きかったと思うのだが、今のように広い範囲の情報は殆んど入らず、テレビ、ネットなどの情報源もないのだから気にしようもなく、それほど惨めな気持ちにもならずに済んだのである。
このように考えれば、「情報化社会→情報過社会→情報禍社会」と言う図式が成り立ち、「有り余る情報が人々を不幸にする」と言う事も起きてくるのである。
更に気をつけなくてはいけないことは、情報化時代とは言うものの「その情報量は一人の人間では処理不可能」なほど多く、「有り余り情報に振り回される」と言う結果にもなってしまうのであるが、それ以上に困ることは「悪意を持った情報に洗脳されてしまう」と言うことである。
「自分はそんなことはない」と思う人が殆んどだろうが、悲しいかな、私の目から見れば「殆んどの人は情報依存症になっている」と言う状態で、有り余る情報(その中には情報操作されたものも多いが)により、「冷静に物事を判断する能力」を奪われてしまっているのである。
大河ドラマで坂本竜馬が取り上げられている事も有り、「坂本竜馬の再来」を望む人も多いようだが、今の時代に坂本竜馬が現れたとしても、最終的には「自分の利益だけを考える国民によって抹殺される」と言うのがおちであろうが、この事にしても、冷静に考えれば「今現在も竜馬のような人はいる」と考えるべきだが、その存在を抹殺しているのは「私利私欲に走る国民」ではないだろうか。
このように考えれば、今の世に竜馬が現れ行動したとしても「都合の良い結果は得られない」と考えるべきだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近況報告

2010-03-20 | 日記
大分暖かくなり、季節は春本番を迎えようとしているのだが・・・・。
正直な話、今年の私は以前に比べて気力の衰えを感じざるを得ない状態に陥っている。
特別体調も悪くなく、健康面では問題は無いのだが、何かをしようとしても気力が続かず、このブログも中途半端な状態で、時折書き始めては見るのだが「数行でストップ」と言うことになってしまうのである。
後三ヶ月ほどで68になる事を考えると仕方ない事で、私が子供の頃であれば「平均寿命を越えた」と言う歳でもあるのだが、日本の財政状態を考えると「長生きも良し悪し」ではないだろうか。
さて、こんな精神状態の私ではあるが、けして「鬱」になってしまったわけではなく、タダ単に「気分が優れない」と言うだけで、「火曜・水曜・木曜の昼間と日曜の夜」の計4回もボーリングをしているのです。
去年の11月までは「火曜と木曜」の2回だったのだが、11月の後半にあったボーリング教室を受講したことをきっかけに、その後出来た新しいリーグ戦にも参加するようになり、気が付くと「週に4回」と言うことになっていたのです。
別名「仲良しリーグ」とも言われているように、余り気を使うこともなく楽しくボーリングが出来るのだが、その事の反動が出ている面も無きにしも非ずで、「苦あれば楽あり」の反対で「楽あれば苦?あり」と言ったところでしょうか。
さて、このリーグ戦の成績なのだが、昔の私(プレッシャーに弱い)であれば「下位に低迷」していたのであろうが、ボーリング教室を受講してからは大きく変身し、「普段より試合のときのほうが点数が良い」と言うようになり、一次リーグでは「8人中二位」で、二次リーグ(14人)でも上位グループに入っており、通算でも「唯一アベレージ180以上」を維持しているのですから驚きです。
試合以外では165くらいで低迷していますが、これは昔と正反対で、変われば変わるものですネ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

備えあれば憂いなし(転ばぬ先の杖)

2010-03-11 | 日記
これは私の基本的な考え方で、今の私があるのは正にこのことを実践してきたおかげでしょう。
こんな事を書着始めたのは、最近私の家で「予期せぬ出費」が必要になったのだが、その額は、昨年1年間必死?になって節約した額でほぼ賄える金額だったのですが、「節約をしていなかったら」と思うとゾットします。
「予期せぬ出費」とは、38年間使ってきた水道管が破損し、工事をした水道屋に修理を依頼したのだが、その結果は「破損部分の場所が悪く修理出来ない」と言う事で、新たに水道管を埋設しなくてはいけなくなってしまったのです。
明日から2日がかりの工事に入るのだが、このように、予定外の出費や車の買い替えなど、ある程度まとまったお金が必要になる事はけして珍しい事ではないのだが、多くの場合はその時になってあわてる事が多いのではないだろうか。
私のブログを始めから読んで下さっている方はわかると思うのだが、私は小さい頃からお金のありがたみが身に沁みており、常に「万一の備え」を確保するように努力をしてきたのですが、必ずしも十分ではなかった時もありました。
それではお金が足らなかった時はどうするかと言うと、当然の話ではあるが「借金をする」と言うことになるのだが、やむを得ず借金をしてしまった時は、直ちに「借金返済が最優先」と言う生活パターンに切り替え、可能な限りすみやかに借金を返済してきたのです。
そして、借金の返済が終わったあとも「出来る限り借金返済時の生活パターンを維持する」と言う事で、少ない収入でもいつの間にかお金が貯まって来るのです。
このことを如実にあらわしているのが、子供が小学生だった頃の話だが、ある日突然子供から「お父さん、うちは貧乏なの?」と言われた事があるのだが、当時はバブルの真っ盛りで、友達のうちでは次々に新しい車や電気製品を買っていたのに、我が家では全くそのような事をしていなかったので貧乏に見えたのでしょうが、その結果として無事に大学を卒業させる事も出来たのです。
そして、このような生き方が私の外見にも表れているようで、実際はかなり貧しい生活をしていても、「多少でも備えがある」と言う余裕と、「貧しさ慣れ?」が貧しさを隠しているのでしょうが、昔おばあさんから「いくら貧しくても心まで貧しくなるな」と言われた事も大いに役に立っているのですが、現代社会は「物質的には豊かだが、心は貧しい時代」ではないだろうか。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする