「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

献血の結果です

2010-12-31 | 日記
10日前に献血をしたことはすでに書いているのだが、献血をするとこのような検査結果が送られてきます。

健康に問題が無くても、70才になると献血が出来なくなるので、残された期間はあと1年半しかありません。

若いころは献血などしなかったのだが、会社勤めをリタイアした後は会社で健康診断をする機会が無くなり、町で実施する健康診断も面倒で余りせず、献血がいわば「健康診断代わり」なのである。

5回分の検査結果が記載されているのだが、見てわかるとおり「問題になる数値」は無く、ほぼ平均した数値になっているのである。

これ以前の5回を含めても数値的に問題になる部分は無く、ほぼ一定の数値で推移しているので、この数値を維持できるようにしたいと思っているのだが・・・・。

2年余り前から「グルコアルブミン」が検査されるようになり、この数値が「16.5以上」になると糖尿病になる危険があるらしいのだが、無類の甘党にもかかわらず良好な数値を示しているので一安心である。

一人暮らしなので、どうしても出来合いのものを食べることが多くなるのだが、「無類の甘党」であるとともに、「脂っこいものも大好き」なのにもかかわらず、何故かコレステロール値も問題がないのである。

血圧も、私の家系は高い人が多く「脳溢血」で死ぬ人が多いのだが、私の場合は「平均135くらい」で、これも問題ないのである。

最近問題になっている、朝起きたときの血圧が高い「隠れ高血圧」だが、私の場合は「120くらい」で、血圧が低めに出る「風呂上り」と同じくらいなのである。

先月、「朝起きたときにめまいがする」と書いたのだが、最近は余り気にならない程度に改善され、ひょっとすると「起立性脳貧血」なのかもしれない。

今年も残すところ「あと1日」である。

さて、来年はどんな年になるのであろうか。

若いころであれば新しい年になることを喜ぶこともあったのだが、60に近づくにしたがい「喜ぶ」と言う気持ちは薄れ、誰だかが言っていた「初春は 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くも無し」といった心境になっている。

正直な話、私が子供のころであれば、とうに「平均寿命を超えている」のだから・・・・。

最後に暗い話を書いてしまったが、来年も頑張るつもりなのでよろしくお願いします。
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無事?早稲田中学に合格

2010-12-27 | 日記
今思い出しても不思議に思うのだが、このころの私は何故か非常に勉強が出来たのである。

「勉強会」で学んだこともあるのだろうが、とにかく自分でもビックリするくらい良く出来たのである、が・・・・。

このころは有名中学を受験する生徒を対象に「模擬試験」と言うものが行われ、何度か参加した覚えがあり、最も記憶に残っているのは、15,000人くらいが参加した模擬試験でタダひとり「満点」を取ったことである。

さて、私にとっては「早稲田以外は眼中に無い」のだが、このとき何とも不可解な事が起きるのである。

それは「滑り止めとして慶応中学にも願書を出す」と言うことなのである。

私にすれば、「慶応なんて全く興味がわかない学校」でしかなく、「無駄なことを・・・・」と言って程度にしか考えていなかったのである。

今はどうか知らないが、このころの慶応中学は「試験で合否を決める」のではなく、「抽選」で決めていたのであるが、ある意味「見栄」と言うこともあったのかもしれない。

基本的には、各学校から送られる書類(内申書?)で選別した後抽選するのだから「滑り止めの意味を成さない」のである。

通称?「ガラガラポン!」などと言われていたようで、福引の抽選と同じだったのである。

こんなわけで、試験を受けることも無く「不合格」となってしまうのであるが、かなり後になって考えたことがあるのだが、このとき「慶応に受かって早稲田は落ちる」と言うことになっていたらどうだったのであろうか。

これはあくまで「仮定」の話だが、「たぶん区立の中学に行っていた」であろう。

何故なら、始めに早稲田中学の合格発表があったのだが、合格発表を見に行った人からの連絡では「私の番号は無かった」と言うことだったのだが、このときの気持ちは比較的冷静で、特別ガッカリすることも無かったことを覚えています。

「慶応の発表は未だだから」と言う慰めの言葉もあったのだが、私とすれば「皆と同じ中学に行けばいい」と言う程度にしか考えておらず、慶応の発表などどうでもよかったのです。

こんなわけで、それから1時間くらい経ったころだったろうか、再確認に行った別の人から「本当は合格している」と言う連絡が入るのだが、このときも特別感激は無く、「ヘー、受かってたんだ」と言うくらいにしか感じなかったのです。

結果は。私のクラスは「3人受けて2人が合格」で、他のクラスも含めると「7人が受けて5人が合格」と言う結果になったのであるが、同じ学校から複数の合格者が出るのは珍しいことだったらしい。

試験自体はかなり自信があったのだが、始めに「ダメだった」と聞かされたときは、「あれで落ちるのだから相当レベルの高い学校だろうな」と思っていたのだが、この予感は見事に的中するのである。

中学2年になってから入学試験の結果を担任の先生から聞かされたのだが、その結果は自分の予想より良く、「理科、算数、国語、は満点で、社会は98点」と言うことで、「トップグループで合格」だったのだそうである、が・・・・。

この件については改めて書くので、今夜はこの辺で終わりにするとしよう。
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小学6年(得意絶頂?)のころ    3

2010-12-24 | 日記
この年私は「健康優良児」として表彰される候補に上がるのだが、最終的には「体が小さすぎる」と言う理由ではずされるのである。

選考基準は正確にはわからないのだが、最低でも「三年間皆勤」であることが条件であったようで、私は「六年間皆勤」なのだから問題はなかったのだが、如何せん「体が小さかった」のである。

しかし、後になって聞いた話では「成績が優秀である」と言うことも条件にあったらしく、三年間皆勤でも候補に入らなかった子が結構いたそうである。

私が六年間皆勤だった理由には「父と母のいさかい」があったことも大きく影響しているだろう。

前にも書いたように、母は子供に余り関心がなく、私が風邪を引いても気が気に留める様子もなく、病院に連れて行ったもらうこともなかったのである。

5年の終わりのころだったと思うが、2ヶ月余りにわたって腰痛(今にして思えば椎間板ヘルニアだったと思うが)に悩まされていたときも気が付いてくれず、結局一日も休むことはなかったのである。

何しろ、踵をつくと腰に激痛が走り、殆ど爪先立ちで歩いていたのだが、結局医者に行くこともなく治ってしまったのである。

これが古傷として残っていたのだろうか、35歳を過ぎたころから毎年のように腰痛(ぎっくり腰に近い)に悩まされるようになるのだが、45歳くらいのころから「少年野球のコーチ」を始めると少しずつ良い方向に変化し、それ以後は余りひどい腰痛に悩まされることは少なくなりましたが・・・・。

私の体はかなり丈夫に出来ているようで、一歳のころ一度死に掛けたことがあるらしいのだが、それ以後は特別大きな病気もせず、風邪で寝込むようなことも殆ど無いのです。

「寝込むことはない」とは言っても、時には風邪で40度近い熱が出ることはあるのですが、中学2年のときはそのまま学校に行って先生に怒られ、会社勤めをするようになっても「発熱が原因で休んだことはない」のです。

これも、子供のころ病気になっても誰も心配してくれなかったことで「精神的に鍛えられた」と言うことが根底にあるのだろう。

「健康診断」は数年前に受けたきりだが、可能な限り「年2回の献血」は欠かさず、先週も献血をしている。

献血をするとある程度のことは調べてくれるので、「健康診断の代わり」と思って後1年半頑張るつもりでいる。

今回の結果は未だ届いていないのだが、今まで、血液成分、肝機能、コレステロール、・・・・など、どれをとっても「正常値」の中に納まっており、68と言う年齢を考えれば「非常に良好」と言えるのではないだろうか・・・・。
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小学6年(得意絶頂?)のころ    2

2010-12-24 | 日記
私が通っていた小学校は「コーラス(合唱)」でかなり有名だったようで、戦前には「全国学校音楽コンクール」で優勝したこともあり、音楽室にはその記念に買ったグランドピアノが有ったのである。

戦災で焼けてしまった学校も多く、当時グランドピアノが有る学校は少なかったようで、殆どがオルガンしかなかったそうであるが、この学校は幸いにも戦災に会わなかったのである。

当時の校長先生も熱心な方だったようで、毎日朝礼が始まる前、1年生から6年生まで全校生徒(1,000人余り)による「輪唱」が行われていたのである。

当然、5年になると「音楽コンクール」に参加するための「コーラス部員」が選ばれるのだが、私はそのメンバーに選ばれてしまうのである。

当時の私は人前で歌うのが非常に嫌いで、音楽の時間に歌わされるのは「拷問?」のように感じていたのだが・・・・。

5年のときは控えだったのでまだよかったのだが、6年になると大変である。

授業が終わった後の練習はまだしも、歩いて1時間余りのところにあるライバル校に遠征に行くこともあり、夏の暑い日などは泣きたくなったものである。

そして、区の代表を選ぶコンクールが「公会堂」で実施されるのである。

観客はおよそ1,000人である。

しかし、「極端な上がり症」の私である。

このような状態になると決まって「頭の中が真っ白になる」ため、ステージに上がったところまでは覚えていても、「歌っている最中のことは全く記憶にない」のである。

メンバーは40人近くいるのだから「一人くらい歌わないやつがいてもわからない」と思う人もいるだろうが、実は私「2番はソロで歌う」という役目を担っているのである。

つまり、2番は私独りで歌うのだから、ちゃんと歌っていなければ大変なことになるのである。

しかし・・・・。

こんな有様なのだから、「落選するのが当たり前」のはずなのに・・・・。

終わって見れば、ナント「区の代表に決定」してしまうのである。

次は「都の予選」で、ナント「日比谷公会堂」で歌わなくてはいけないのだ。

観客はおよそ「3,000人」だそうである。

この時もいつもと全く同じで、ステージに上がって整列したところまでは記憶にあるのだが・・・・。

次に記憶が戻るのは「歌い終わってステージから下りる階段の途中」で、その間の記憶はいつもどおり「全くない」のである。

この時もちゃんと歌っていたそうだが、さすがに「都の予選」は突破できなかった。

音楽の先生からも「よくがんばった!」と言われたのだが、自分としては全く覚えていないのだから困ったものである。

中学に入っても同様で、本人の意思など全くお構いなく、コーラス担当の先生によって「強制的にコーラス部員にされる」のである。

しかし、中学では「音楽コンクール」に参加するようなことは無かったようで、主に、「文化祭(早稲田祭と同時開催)」で歌うことが多く、時には、早稲田祭の余興として「大隈講堂」で歌わされたこともあるのだが・・・・。

しかし、この時も全く歌ったときの記憶が無く、このころの私のとって「人前で歌う」と言うことは「苦痛以外の何ものでもない」のである。
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小学6年(得意絶頂?)のころ    1

2010-12-23 | 日記
私の人生の中で小学6年の1年間は「最高に輝いていた時期」と言ってもよいだろう。

よく言うところの「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればタダの人」を地で行くように、私の人生はこの時期を頂点に、後はタダひたすら下降線をたどるのである。

私が「早稲田に行く」と宣言した後、私のクラスでは7人が私立中学(学習院3人、慶応1人、早稲田3人)を目指していることがわかり、週3回(夜間)だったと思うが、担任の先生を講師にして「勉強会」と言うものが出来るのである。

この頃は「学習塾」なるものは殆ど無かったようで、この勉強会は「私設学習塾」のようなもので、私にとっては「非常に楽しい時間」でもあったのである。

何故「楽しい時間であった」かと言うと、「理科と算数は教えてもらう必要が無かった」と言うより、むしろ「先生の代わりに教えていた」と言う状態で、今思い出しても「何故あれほど出来たのだろう?」と思うほどである。

普段の授業でも、理科の実験などは「先生より私のほうが上手い」と言う有様で、まさに「得意絶頂」だったのである。

算数も得意だったのだが、中学に入ると「幾何・代数」に変わってしまい、一転して「苦手科目」になってしまうのであるが・・・・。

ついでに書いておくが、この頃、それまで使われていた「尺貫法」が「メートル法」に変わる時期に当たり、算数の期間はかなり混乱してしまい、多くの生徒が苦しんだようである。

国語も比較的よい成績だったが、社会は余り得意ではなかった。

体育は、足が遅いため走るのは苦手だったが、跳び箱、懸垂、腕立て伏せは結構得意であった。

水泳に関しては、近くに泳げるような場所も無く、学校のプールも5年の時にやった出来た状態で、そのまま今でも「カナズチ」である。

図工は、絵を描くことが苦手であったが、工作は得意で、これは今でも変わっていない。

音楽については改めて詳しく書くことにする。

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初恋?の思い出

2010-12-21 | 日記
小学校5年のとき、「元華族の娘」と同じクラスになる。

この女の子、非常に整った顔のきれいな子だったのだが、「元華族」と言う家柄のせいか「非常に気が強い女の子」で、同級生の中では嫌われ者であった。

しかし・・・・。

何がきっかけか思い出せないのだが、なぜか私にだけは優しく、しばしばその子の家に遊びに行ったものである。

元華族の家にふさわしい非常に大きなお屋敷で、南に面して広い縁側があり、そこでいつも話をしたり遊んだりしていたのであるが、その頃の私は、同級生に対して「ある種の優越感」を持っていたことは確かである。

同級生から嫌われていても「目立つ存在」であるとともに「羨望の的」でもあったのだから。

私にとっては「その子と仲良しになれた」と言う事とともに、「遊びに行くと美味しいお菓子にありつける」と言うことも「優越感」を感じる要因になっていたのだろう。

しかし・・・・。

1年余り経ったころだったと思うが、まさに「ある日突然」いなくなってしまうのである。

後になって聞いた話によると、父親の事業がうまく行かず倒産してしまい、債権者から逃げるために「夜逃げ同然」で引っ越して行ったのだそうである。

この時は突然のことでかなりショックを受けたのだが、この頃から中学受験のための勉強が忙しくなり、いつの間にか忘れてしまったのであるが、その子の顔は今でも鮮明に思い出すことが出来ます。
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小学5年のころ    5

2010-12-20 | 日記
ここで少し補足的?な話を書いておくことにしよう。

この頃は未だ「ガキ大将」と言う言葉がまかり通っていたのだが、このころの私はある意味で「ガキ大将」であったかもしれない。

この頃の小学校では、夏休み中は地区を区切って幾つかの「班」が決められ、その班長は6年生の役目だったのだが、私が5年の時の6年生は「めんどくさい」と言う理由で私にその責任を押し付けていたのである。

この結果、5年・6年と続けて班長をすることになってしまうのである。

一つの班は、1年生から6年生まで10人から15人くらいの編成で、上級生が下級生の面倒を見ることになっているのだが、実際は遊ぶことのほうが中心になっていたが、時には宿題の手伝いもしたものである。

宿題を手伝うと言っても、当時の「夏休みの宿題」と言えば「昆虫採集」はつき物で、私は「昆虫採集の名人」と言われ、珍しい昆虫も良く捕ったものである。

この頃の東京(中野区)は未だ畑も沢山残っており、河川の護岸も未整備なところが多かったので、昆虫採集も、ザリガニ・小鮒捕りも出来、今では全国的に絶滅が危惧される「タマムシ」さえ東京にいたのである。

テレビを持っている家庭など「全く無い」と言ってよい時代だったので、雨でも降らない限り「昼間家の中に居る」と言うことは無かった時代で、夜は「満天の星空」だったため、「流れ星」も良く見えたものである。

今ある便利な電化製品など殆ど無かった時代だが、子供たちが遊ぶ場所は屋外に沢山あったのである、が・・・・。

ここまで書いてある悲しいことを思い出した。

今は「消火栓」と言うものが整備されているのでわからないかもしれないが、当時はそのようなものは殆ど無く、火災が起きたときに備えて「防火用水(貯水槽)」と言うものがあちこちにあったのだが、「貯水槽」とは名ばかりで、実際は「池」といっても良い代物が多かった。

私の家の近くには「10メートル四方」のものがあったのだが、そこには小魚や金魚が住み、春にはオタマジャクシが生まれ、夏にはトンボのヤゴまで発生するため、立ち入れないように鉄条網の柵はあるのだが、その隙間から子供たちが入り込んでしまうのである。

その結果、毎年のように子供が1人2人と溺れて死ぬのである。

かく言う私も池に落ちたことがあるのだが、普段より水が少なかったためか、幸いにも溺れることなく助かりましたが、「余りにも危険だ!」と言う住民の声で、近所の別の場所に「地下貯水槽」を作ることが決まり、翌年には埋め立てられましたが・・・・。

今であれば「管理者の責任を追及する訴訟」が起こされるであろうが、この頃は「訴訟を起こす」などということは殆ど無かったようで、ある意味「のどかな時代」であったのかもしれない。

そして、この頃は校庭にある大きな木に登ることも良くあったのだが、当然?の話「落ちて怪我をする子もいる」のだが、木登りが禁止されることはもとより「先生が注意をする」と言うことも記憶にありません。

私も一度落ちて怪我をしましたが、この時も親が騒いだ記憶は全くないのです。
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小学5年のころ    4

2010-12-18 | 日記
前回は「肝油」について書いたので、今回は「鯨のベーコン」「鯨肉」について少し書いてみる。

現在は日本の捕鯨が批判の的になっているのだが、敗戦後の疲弊した日本を救ったのは、「アメリカの食糧援助と鯨の肉」と言ってもよいのではないだろうか。

最近は余り鯨の肉を売っていないのだが、当時は非常に安く手に入る「動物性たんぱく質」として重要な位置を占めていたのである。

この頃は捕鯨に対する風当たりは「全く」と言ってよいほどなかったようで、大きな船団を組んで南氷洋まで鯨を捕りに行っていたのである。

鯨一頭で「牛数十頭分」にも匹敵する肉が得られ、しかも「エサが要らない」のだから、貧しい日本にとって鯨ほど有難い存在はなかったのではないだろうか。

今でこそ「鯨のベーコン」は高価(100グラム5,000円?)で非常に貴重な存在になっているが、私が子供の頃は「安物の代名詞」のような存在であった。

私の大好物で、良く近所の肉屋に買いに行かされたものだが、それは今のようにスライスさたものではなく、「1キロから2キロくらいの塊」だったのである。

今であれば「数万円」はするであろうが、当時は非常に安いものだったようで、私はおやつ代わりによく食べたものであるが、殆どが脂身なのに、豚のベーコンと違って「脂っこさを感じない」から不思議である。

そして、今考えると何とも贅沢な食べ方をしていたものである。

その「贅沢な食べ方」とは、大きな塊から厚さ5センチくらいに切り分けたものをそのまま丸かじりしていたもので、今ではとても出来ない相談である。

今なら「一度に数千円分を食べる」と言うようなもので、昔のように安価で食べられる時代が戻ってくることを願わずに入られないのだが・・・・。

さて、鯨の肉の方はどうだったかと言うと、肉質は牛肉と良く似ているが、味は少し淡白で、牛肉のような固い筋は殆ど無かったと思います。

私の家では、鯨の肉を拍子木状に切り、「とんかつソースで煮る」と言う料理が夕食のおかずに良く作られ、私の好物でもあったのだが、普通の家庭であれば、これが「お袋の味」になるのだろうが、残念ながら我が家では「姉の味」と言わなくてはならないのである。

次に良く作られたのが「竹輪の天麩羅」で、全般的に言うと「手の込んだ料理は殆ど無かった」のである。

何故このようなことになるかと言うと、前に一度書いているのだが、「母は料理を作るのが苦手(嫌い)」なために起きたことで、中学生と高校を卒業したばかりの姉たちが作っていた事を考えれば「仕方ない」と言うほかないだろう。

食べ物ついでにもい一つ書いておこう。

これも今では想像もつかない話だろうが、毎年秋になると「腹いっぱいマツタケを食べる」と言うことが良くあったのである。

火鉢(今で言うストーブ)を囲んで食べたのだから、火鉢があるのだから秋も遅い時期だったのだろうが、何処で手に入れてくるのか、子供の腕ほどもある大きなマツタケが沢山あり、無造作に裂いたものを火鉢(炭火)で焼き、醤油をつけて食べたものである。

当然、部屋中にマツタケの香りが充満し、2本も食べると子供の腹はいっぱいになるのであるが、これと正反対なのが「卵とバナナ」であろう。

年代は正確に思い出せないのだが、この当時「ラーメンが一杯30円」位であったのに対し、「バナナは一本30円」で、「卵は一個15円」だったのだから驚きであろう。
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小学5年のころ    3

2010-12-16 | 日記
テレビ騒動もそれほど長くは続かず、受像機の価格が下がるのとは反対に、庶民の暮らしが少しずつ豊かになり、何時の間にか収まってしまった。

次に、このころの学校給食にも触れてみることにする。

昭和30年代に入るとだいぶ様子が変わっていたらしいが、このころは未だアメリカの援助が頼りだったようである。

その典型的なものが「脱脂粉乳」である。

今ではパックまたは瓶入りの牛乳が当たり前だろうが、当時は縦長の大きな容器にクラス全員の分が入っていて、給食当番が一人ひとりに注ぎ分けていたのであるが、それ以上に驚くことがある。

多くの人は「脱脂粉乳」と言うより「スキムミルク」と言ったほうがわかりやすいかもしれないが、このころの脱脂粉乳は「全く別物」と言いたくなるほどひどいものであった。

アメリカから援助されたこの「脱脂粉乳」、アメリカと日本の国力の違いを表すかのように、入っている容器もまた桁が違うのである。

皆さんは「180リットル入りのドラム缶」をご存知だろうが、この金属製のドラム缶と同じ大きさの「紙製のドラム缶?」に入っているのである。

そして、その色にもまたびっくりするのである。

「脱脂粉乳」と言えば「牛乳から脂肪分(バター)を取り去った残りを乾燥させた粉末」なのだから、本来であれば「ミルク色」であるはずなのに、アメリカから援助されたこの脱脂粉乳、ミルク色のときもあるのだが、しばしば「ピンクやブルー」に色付けされているのである。

この、ピンクやブルーの色のミルクの日は、色がついていることがわかったとたん「エーーッ!」とか「ワーーッ!」と言う悲鳴を上げる子も多く、殆ど飲まずに残す子も珍しくなかったのである。

味も少し甘ったるい感じで、今時の子供であれば「ゲッ!」と言って吐き出してしまうであろうが、未だ貧しかったころのこと、空腹に耐えかねて「仕方なしに飲む」と言う子も多かったのであるが、私を含めた数人は「2杯3杯」と争うようにして飲んだもので、私のクラスだけが「何時もなべが空になっている」と給食を作るおばさんにほめられたものである。

ついでに言うなら、「肝油ドロップ」と言うものもよくついていたのだが、肝油ドロップを知らない人も多いだろう。

「肝油ドロップ」、当時は食糧事情がよくなかったため、「栄養失調(特にビタミン不足)」になる子供も少なくなく、それを補うために「鯨の肝臓から抽出した油」をゼラチンか何かでドロップ状に固めたものを給食に付けていたのである。

家では「肝油」そのものを味噌汁などに入れて飲まされたのだが、けして「美味しい」と言えるような代物ではありませんが、「ビタミンを補給する」と言う役割を考えれば仕方ないことではありますが・・・・。

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小学5年のころ   2

2010-12-15 | 日記
この頃の庶民の生活がどんなものだったか知らない人が多くなっているので少し書いてみることにしよう。

私が5年生になる少し前(昭和28年2月1日)に、日本で始めてテレビ放送が始まったのである。

初期に売り出されたテレビ受像機(白黒で14インチ)は「20万円から30万円」だったようで、当時の郵便貯金の預け入れ限度額が「10万円」だったことを考えると、とても庶民が手に入れられるような代物ではなかったのである。

このため、今ではとても想像出来ないだろうが、「街頭テレビ」と言うものが主要な駅の広場に設置され、その周りには人だかりが出来たものである。

「街頭テレビって何?」と思うだろうが、駅前の広場などにテレビが設置されていたのだが、高さは3メートルくらいだったろうか、柱のようなものの上に取り付けられており、大勢の人が集まって見ていたのである。

テレビには雨が当たらないようになってはいたが、見る側には屋根もなく、雨の日は傘をさして見ていたのである。

私もよく見に行ったものだが、まもなく近所の一人暮らしのおばあさんが買ったのでよく見せてもらったものである。

私はもともとこのおばあさんに可愛がられていたこともあり、私だけが特別に見せてもらえたのである。

しかし・・・・。

その少し後(半年くらいだっただろうか)、突然我が家にテレビがやってくるのである。

まさに「突然」の出来事なのだが、それは、ある酒造会社が販売促進のためにテレビを景品にした「三角クジ」を付けていたのだが、販売期限切れで売れ残った中に「特賞(テレビ)のクジ」があったのである。

この頃は少し値段も下がっていたのだが、それでも「14万9千円」と言う値札がついていたことを今でも覚えています。

これでもサラリーマンの年収に匹敵(それ以上かも)するくらいだったのですから、如何に高価だったかがわかるでしょう。

しかし、この後大変な騒ぎが起きるのです。

この頃は力道山を中心とした「プロレス」が非常な人気を得ていて、私の家が酒屋であることから「放送時間前になると近所のお得意さん数十人が集まってくる」と言うことになるのです。

商売柄断ることなどとても出来るはずもなく、テレビが置いてある部屋は人であふれかえるのである。

初めは私も一緒になって見ていたのだが、徐々にある疑問が湧き出し、「プロレスは見世物(ショー)」だと言うことがわかり、急速に興味を失ってしまい、それ以後は見る気がしなくなってしまった。

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