「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

母の話   その3

2011-02-28 | 日記
今まで書いたことでも分かると思うのだが、私の母親は「常識が通用しない人」なのです。

最近のギャルママであればまだしも、明治時代に生まれた女としては考えられない事なのです。

過去に何十人と言う人にこの話をしているのだが、まともに信じてくれた人はいないのです。

しかし、悲しいかなこれが現実の事で、今もって「本当の母親だったの?」と思うことがあるのです。

父親にしても同様で、「ひょっとすると?」と言う事を今でも思うことがあるのですが、正直な話「そうあって欲しい」と言う気持ちも十分ありますが・・・・。

こんなわけで、よく言われる「おふくろの味」というものは存在せず、あるとすれば「姉の味」と言うべきでしょう。

下の姉とは「4歳違い」で、上の姉とは「9歳違う」のだから、私が小学4年のとき、下の姉は中学2年で、上の姉は高校を卒業して家の手伝いをしていた。

このため、私の記憶の中で母親が食事の支度をしていたのを見たことがなく、いつも姉たちが食事の支度をしていたのである。

こんな状態であるから、私が風邪を引いて熱を出しても気がつく人はおらず、中2のときだったろうか、朝起きたときに40度近い熱があることを知りながら学校へ行ったことがある。

すぐに先生が気がつき、早速保健室につれて行かれたのだが、保健の先生からは「こんなひどい状態で学校へ来るなんて!」と怒られるのだが、事情を説明すると納得してくれたのである。

結局、夕方まで保健室で寝て過ごし、その後家に帰ったのだが・・・・。

当然?の話だが、家に帰っても心配してくれる人はおらず、自分で風邪薬を飲んで寝るしかないのである。

翌朝はかなり熱も下がっていて、結局学校を休む事もなかったのだが・・・・。

このように、私が熱を出しても誰も心配をしてくれず、これが原因となったのか、私は熱に強い体質に変わっていたようである。

その後現在に至るまで、何度40度近い熱を出したか分からないのだが、一度として「高熱のため寝込む」ということは無いのである。

これは30過ぎの事だが、「風疹」にかかったときの事である。

自分が風疹にかかっているなどとは思っておらず、高熱にもかかわらず何時ものように1日中車で仕事現場を回っていたのだが、会社に帰ってきて事務員のおばさんに怒られるのである。

風疹の事など全く眼中に無く、高熱で朦朧としながら1日中車を運転したのだから、全く持って「無茶な話」ではあるが。

3年前にも「9度3分」まで熱が出たことがあるが、何分にも一人暮らしである。

寝込んでいても誰も看病などしてくれるはずも無く、このときも寝込むことも無く治ってしまうのである。

「若いときの苦労は買ってでもしろ」と言うが、これもその一種かもしれないと思っているのだが・・・・。
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ここで母の話を少し   その2

2011-02-23 | 日記
前回は弁当の話しを書いたのだが、これ以外にも常識では考えられないようなことが沢山有るのです。

中学生が学校に行く時間に起きてこないこと事態異常な事なのだが、学校に納める「授業料以外のお金」でも同様のことが起きるのです。

学校からは納めるお金に関するプリントが渡されるのだが、そのプリントを母に渡しても「なしのつぶて」なのです。

当たり前の話だが、収める期限があり、その期限が迫ってもお金は貰えず、「○○のお金は?」と催促すると「お父さんがいいといったら」と言う返事しか返って来ないのである。

その頃はこの言葉の意味を理解できなかったのだが、かなり後(10年以上)になってからやっと意味が分かるのである。

その意味を要約すると「私に言っても無駄だから、自分でお父さんに言え」と言う事だったのである。

そんな事とは露知らず、滞納すれば「事務所の掲示板に滞納者の名前が張り出される」と言う事で、窮余の策として「店のお金をくすねる」と言う手段で切り抜けたのである。

毎日学校から帰るとすぐに店番をさせられていたので、私が一人で店番をしているときにくすねるのである。

渡したプリントの存在は父も知っていたのだが、まさかこんな事になっていることまでは知らなかったのである。

これも後になって知ったのだが、当時の父と母は「家庭内離婚」の状態になっておる、一緒に暮らしていながら「会話は殆どなかった」のだそうである。

これは母が89歳で死ぬ前の年に聞かされた話であるが・・・・。

中学生のころはよく「無実の罪」にも泣かされていて、「何でこうまで俺が悪者にされるのだろう?」と思っていたのだが、そこにも母の存在が大きくかかわっていたのである。

このころは弟や妹がやったいたずらのほとんどが「私がやった事」にされていたのだが、私ではないことを母は知っていながら「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいたのである。

しばしば学校から帰るなり父に怒鳴られていたのだが、その殆どが「無実の罪」で、父もその事はわかっていての事だったのである。

「それじゃ何故?」と思うだろうが、父にとっては「日頃鬱積していた母に対する不満の捌け口」として私に八つ当たりしていたのである。

「八つ当たり」と書いたのだが、正しくは「あてつけ」と言ったほうがよいだろうが、母にしてみれば「いつもの事」と言った程度にしか感じていなかったらしいのだが・・・・。

このような状態でも離婚に至らなかったのは、父にしてみれば「店にとって大事な労働力」であり、母の側は「一人では生活してゆく自信がない」「少し我慢をすれば一生楽な暮らしが出来る」と言ったところだったようである。

このため何度か家出もしているのだが、決まって「数日で戻ってくる」のである。

家出にしても「本気」でなどなく、「気晴らし」と言った程度で、その後しばらくは父も大人しいのだが・・・・。
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ここで母の話を少し

2011-02-19 | 日記
常識的に考えると、「母親は子供のために早起きをして朝ごはんを作る」のだろうが、私の母は常識が通用しないのである。

早稲田では「給食(学食)」と言うものはなく、お弁当を持って行くか、学内にある「売店」で菓子パンを購入するしかないのである、が・・・・。

「お弁当はとても無理だ!」と言う事で、パンと牛乳を買うお金を渡されるのだが、それはある程度仕方のない話である、が・・・・。

問題は、「毎日の朝食」なのである。

学校へは電車通学で、朝6時半に起き、7時15分に家を出るのだが、そのとき母は未だ寝ているのである。

要するに「朝ごはんを用意してくれる人がいない」のである。

8人家族だったので、何かしら前の日の残り物があり、結局それを食べて学校に行くのだが、暖かい時期はまだしも、寒い冬など大変であった。

今時の「ギャルママ」であれば話は別だが、これが「明治生まれの女」なのだからどうしようもないのである。

最も嫌だったのは、体育祭や文化祭のときである。

この日は学内の売店が休みになるうえ、普段は外の食堂で食べことも可能なのに、体育祭と文化祭の日に限っては「校門から外に出る事は禁止」なのである。

殆どの生徒は親が見に来ていて、昼は「家族と食事」と言う事になり、売店が休みでも関係ないのだが・・・・。

私の場合は親が来ることはなく、そのうえ弁当を用意してもらう事もできないのだから「昼食を食べる事ができない」のである。

親友たちは私の親が来ていない事を知っているため、「お昼は一緒に食べようぜ!」と誘ってはくれるのだが・・・・。

いくら誘われても、肝心の弁当がないのだからどうしようもない。

コンビニなどない時代だから、「どこかで弁当を調達する」と言う事もできず、このため、午前の部が終わる直前にみんなの前から姿をくらまさざるを得ないのである。

隠れる場所はトイレで、中から鍵をかけ、タダひたすら時間が経つのを待つのである。

しかし・・・・。

1年のときはばれなかったのだが、2年のときにばれてしまい、3年のときは親友のお母さんが、私の分としてお弁当を作って持ってきたのである。

2年のころには私の家の事情が同級生の間で知れ渡り、それを知った親友のお母さんが作ってくれたのだが、このときの惨めな気持ちは一生忘れる事は出来ないであろう。

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実は・・・・

2011-02-14 | 日記
生物と物理でとんでもない点をとったことを書いたのですが、実は、「他の科目」は惨憺たる成績だったのです。

通知表に記載される成績は、通常は「1~5」が多いのだが、早稲田では「1~10」で記載され、中間テストと期末テストの点数を基準に決められるのですが・・・・。

「3」は落第点で、3科目で「3」を取ると「留年(落第)」と言う事になります。

私は中三の時に3科目で「3」を取り、正に落第の危機に立たされたのです。

2学期の時だったと思うが、担任から「このままでは中学を卒業できない(留年)が、どこか他の高校に行くなら卒業を認める」と言われるのである。

しかし、そのときの私は「落第かー!、別にどうでもイイよ」といった投げやりな気持ちでいたのですが・・・・。

それを聞いた父はたいそう腹を立てたようで、後で聞いた話によると、「血相を変えて学校に怒鳴り込んだ」のだそうである。

そのためだろうか、私とすれば落第を覚悟していたのに、気がつくと「高校に進学できていた」のである。

しかし、こんな状態なのだから、「幾何」「代数」「化学」「歴史」「古文」「漢文」など、いくら講義を聴いても「チンプンカンプン」で、2学期の中間テストでは、父に対するあてつけから「答案を白紙で提出」と言う事になるのである。

これもすぐに父の知るところとなり、「そんな気持ちならやめてしまえ!」と言われ、即座に「ああやめてやる!」と言う事になるのである。

翌日から学校に行かなくなるのだが、父とすればかなりあわてたようであるが、自分で「やめてしまえ!」と怒鳴った手前、対応に苦慮したようである。

親友が何人か説得に来たのだが、私の意志の固さに、何も出来ず引き下がるしかなかったのである。

この後の私は、今で言えば「ウツ」または「引きこもり」のような状態になり、殆ど毎日のように「自殺」と言う事を考えていたのである。

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物理でも、摩訶不思議な点が・・・・

2011-02-11 | 日記
「100点満点の試験で120点」など信じる人はいないだろうが、ごれが現実の話なのである。

私が高校を中退する少し前のことなのだが、「20点×5問=100点」の試験で、常識的?な採点の仕方をすると「80点」にしかならないのだが、物理担当の先生は「或る事を高く評価する」と言う事で、前代未聞の「100点満点の試験で120点」と言う事になったのである。

この話は物理の先生が学校中に広めてしまい、上級生が「120点取ったやつこのクラスにいると聞いたのだが」と、私のいる教室にやって来たものである。

生物で満点を取ったときも同じことで、この二つの事件により、私に名前は一躍有名になってしまうのである。

最近は変わってしまったかも知れないが、このころの早稲田中学(高校)では他とかなり違っていたのだが、このことを考えると、私が早稲田を選んだのは「必然的」だったのだろう。

このときの試験は、5問のうち3問は簡単に解けたのだが、残りの2問は「公式」を思い出せず、「このまま提出しようか」とも思ったのであるが・・・・。

このころの試験は、試験の時間の半分が経過すると、問題が解けていなくても「自分の責任で答案を提出して教室を出ても良い」と言うルールがあったのである。

3問は20分足らずで解けたので、後は時間が経つのを待っていたのだが、そのうち「フッ!」とある事に気がつくのである。

これなら後の2問も解けそうだと思い、急遽問題に取り組んだのだが・・・・。

1問を解いて2問目に取り掛かったのだが、さすがに時間が足りなくなり、2問目は半分ほどしか解けなかったのである。

しかし、物理の先生はこの部分に注目し、「公式を使わずに良く解いた」とほめてくれたのである。

暗記が苦手な私であるが、このように応用を利かせるのは得意な分野なのである。

中2のときは、幾何の授業中に突然あることを思いつき、先生の目を盗んで「新しい形の船の図面」を書いたことがあるのだが・・・・。

先生の目を盗んだつもりが、図面を書くことに夢中になり、気がつくと目の前に先生がいたのであるが・・・・。

幾何の先生から担任に報告され、担任に呼び出されたのだが・・・・。

担任は「物理の先生」で、特別怒られるようなこともなく、逆に、船の図面の意味を聞かれるのである。

私が考えたアイデアは、数ヵ月後にある会社が特許を取ったものとほぼ同じで、そのアイデアを発展させたものが最近一部の船に使われているのである。

生物で満点を取り、物理では120点を取ったことからもわかるように、私の成績は「ビリか一番か」と言うほど極端で、これは今でも変わらないのである。

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史上初の快挙?

2011-02-07 | 日記
生物担当の先生はかなりユニーク?な存在で、「問題を作った先生でも満点は取れない」と言うような問題を出す事で有名な、ナントもユニークな先生だったのである。

「満点を取れない?」と思うだろうが、それは「地球上に存在しない植物の、存在しない理由を書け」などと言う、「何が正解かわからない問題」が良く出されるのである。

この問題は20点が満点で、私が満点を貰うまでの最高が「18点」だったため、「生物の試験は98点が満点だと思え」と言われていたのであるが・・・・。

存在しないものを「どのような理由で存在しないか説明する」のが難しい問題で、この問題で苦労する人が多かったのだが・・・・。

このように、推理(測)を必要とする問題は「私の得意分野」で、時間の許す間様々な事を書いたのである。

答を書くスペースはかなりあったのだが、それでも足りず「余白」にまで書いた私である。

ついでに言うなら、殆どの人は「2,3行書いて終わり」と言うものが多く、私の回答の多さは目を引く存在でもあったそうである。

今は何をどう書いたのか殆ど覚えていないのだが、その中に先生が注目するようなことが書いてあったそうで、その結果「史上初?の100点満点」と言う事になったのである。

英語や化学などでは「出来が悪い」と言う意味で注目されていたのだが、生物では全く反対の理由で注目をされ、このことがきっかけで「上級生にも名前を知られる存在」になるのである。

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英語が苦手な私    2

2011-02-05 | 日記
新しい家庭教師が来ても一向に状況は変わらず、私の成績は下がり続けるのである。

それでも、新しい先生は私の話を聞いてくれ、何度か先生の家にも遊びに行ってものである。

しかし、最終的には「お前の置かれた状況は私にはどうしようも無い」と言う事で、三年になった頃、適当な理由をつけてやめていったのです。

それ以後は家庭教師が来る事もなくなり、やがて私の心の中に「どうでもいいよ」と言う投げやりな気持ちが芽生えてくるのである。

さて、こんな事を書くのはどうかとも思うのだが、たった一度ではあるが「カンニング疑惑」をかけられてことがあるのだ。

それは、私が良くやる事なのだが「前後の単語から文脈を推測する」と言う事があるのだ。

このときの試験の「英文和訳」が偶然ではあるが正解が多かったのだが・・・・。

しかし、その中に含まれていた単語が別の部分でも出題されていたのに、「其処では答えを間違えている」のである。

要するに「単語がわからないのに何故文章が訳せるのか?」と言う事なのである。

結局、私の性格を理解していた担任の先生(物理)の助けで事なきを得たのだが、今思えばナントもばかげた話である。

英語以外にも、幾何、化学、漢文、古文、歴史、など、応用のきかない科目は惨憺たる成績であったが、その反対に、「応用のきく、生物、物理」ではかなり有名な存在だったのである。

次は、この得意科目である「生物と物理」に関して書いて見ようと思う。
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英語が苦手な私    1

2011-02-03 | 日記
私は暗記が苦手なため、英語も苦手なのだが、これには少々わけがあるのです。

最大の理由は「勉強をする時間も環境も無かった」と言う事で、それに追い討ちをかけたのが「授業のレベルが非常に高い」と言う事である。

中1の夏休み、区立の中学に行った同級生と教科書を見せ合ったことがあるのだが、二人とも余りの差にびっくりしたものである。

このことは後になっても思い知らされるのである。

息子が中学三年のとき「授業参観」で英語の授業を見学したことがあるのだが、このときの授業内容は「早稲田中学一年の一学期」と同じレベルで、「中三でまだこんな事やってるの?」と言うレベルだったのである。

このような状態で「勉強をする時間も環境も無かった」のだからたまったものではないのです。

このころの私は、学校から帰ると「店の労働力」とされ、晩御飯になるまで店番や配達をしなければならなかったのです。

食事が終わった後も「風呂焚き」が私の役目で、開放されるのは夜の9時近くなのです。

今はボタン一つで風呂も沸くでしょうが、このころは「薪で沸かす」ため、1時間近く火の管理をしなくてはいけなかったのです。

そのころ弟や妹は「自由に好きなテレビを見ている」と言う状態で、かなりの期間私は「テレビを見ることが出来なかった」のです。

このことが影響しているのだろう、それからずっと今まで「普通の人ほどテレビに興味が湧かない」のです。

さて、中一の三学期だったろうか、ある日父が学校に呼び出され「お宅の息子さんは英語が少しダメなので、家庭教師をつけるように」と言われたのだそうである。

そして、家庭教師がやってくるのだが、ここでなんとも不可解な事が起きるのである。

それ以前にも、授業参観などで父が学校に行くと、その後必ず言うせりふがあるのだが、それは「みんなは5時間も6時間も勉強しているそうだ、だからお前も同じくらい勉強しろ」と言うのだが・・・・。

現実はそれと裏腹で、夕方5時ごろ学校から帰ってくるとすぐに「店番(配達)をしろ!」と命じられ、それ以後、風呂焚きが終わるまで勉強をする暇など無いのである。

本当は「部活」もやらなくてはいけなかったのだが、少し帰りが遅くなっただけで「今まで何処をうろついていたんだ!」と怒鳴られる状態で、とても部活など出来る状態ではなかったのであるが、部費も貰えず、いつも「部費を滞納して退部処分」にもなっていたのであるが・・・・。

9時近くなってやっと勉強を始められるのだが・・・・。

しかし・・・・、その後いつも決まって11時になると「何時まで電気をつけているんだ!」と怒鳴られるのである。

このように、どんなに努力しても勉強する時間は「2時間程」で、その上「和英辞典以外何も無い状態」ではどうしようもないのである。

しかし、週二回家庭教師が来るようになると、その日だけは「先生が来るから勉強していろ」と言うのであるが・・・・。

私とすれば「英語などどうでも良い」と言った感じで、家計教師が来ても全く身が入らなかったのである。

一度家庭教師の先生に「辞書や参考書を買ってもらえないので、先生のほうから話してください」と言ったのだが、結局話はうやむやで終わってしまい、その後その先生は「私の手には負えません」と言ってやめてしまった。

その後また新しい先生がやってくるのだが・・・・。
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得意な科目と苦手な科目

2011-02-02 | 日記
小学校のときはそれほどでもなかった「得意な科目と苦手な科目の差」が、早稲田中学に入ると「ハッキリとした差」となって現れてしまうのである。

この差がはっきり出る原因に「応用(推理)は得意だが、暗記は大の苦手」と言う事が根底にある。

このため、トランプの「神経衰弱」は苦手で、これだけはいくらやっても勝ったことがないのである。

暗記が苦手と言う事は、「歴史」「化学」「幾何」などどうしようもなく、丸暗記物は最悪の成績であった。

英語も苦手だったのだが、この件については改めて書こうと思っている。

その反対が、「生物」「物理」である。

生物は「得意中の得意」な科目で、殆ど「学年トップ」だったのであるが、先生もかなりユニークな先生であったと思う(改めた書きますが)。

物理も得意ではあったが、「公式」を覚えるのが苦手で、公式を思い出せずに苦労したものであるが、結構応用を利かせて切り抜けたものである(この件も改めて書きます)。

さて、ここで一つ書いておきたいことがある。

せっかく入った学校も、高校1年の10月に登校拒否をしてそのままやめてしまったのだが、私が何故早稲田を目指す気になり、慶応には全く興味がわかなかったかと言う意味が、その後20年近く経ってから気がつくのである。

「早稲田のバンカラ、慶応のお坊ちゃん」と言われるように、早稲田と慶応では「校風が全く違う」のである。

要するに、「私の性格が早稲田向きだった」と言うだけの事なのである。

実際には高1の秋までの3年半しか通っていないのだが、今でも私の心の中には「早稲田」と言う存在が大きな形で占めているのである。

こんなことが影響しているのだろう、成績ががた落ちして、最終的には「退学」と言う結果になっていながら、「悪い思いでは全く無い」のである。

今でも当時を思い出すと「楽しい思い出ばかり」で、学校では先生や友達に恵まれていたのである。

家に帰ると状況は一変するのだが・・・・。


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