「八転び七起き」の人生

「七転び八起き」の間違いではなく、現在八回目の転倒から起き上がろうともがいている男の「人生の回顧録」です。

入学式当日の話。

2011-01-31 | 日記
入学式の後、各教室でいろいろな説明を受けた事は前に書いているのだが、それ以外にも記憶に残ることがある。

ひとあたり説明が終わったあと、担任の先生が私に「後で職員室に来るように」と言われるのであるが・・・・。

何の事かわからないまま職員室に行くと、先生の口から「お前室長をやらないか」と言われるのである。

私は「室長」の意味がわからず、先生に「室長って何ですか」と聞いたところ、一瞬驚いたような顔をされるのである。

やっと「級長」と同じ事だとわかるのだが、私が「やったことがないので出来ません」と言うと、先生はまた驚いたような顔で「お前級長をやたことがないのか?」と言われるのである。

それでは「副室長はどうだ」と言われるのだが、全く経験も無く自信が持てないので「それも勘弁してください」と言うほかなかったのである。

結局「放送委員」を引き受ける事になるのだが、1年生の出番は全く無く、「名ばかり放送委員」で終わったのが正直な話である。

しかし、このとき何故私が「室長候補」になったのかさっぱりわからなかったのである、が・・・・。

その理由は2年になってやっとわかるのである。

担任は物理の先生で、私は物理が得意だったこともあり、何かにつけてかなり好意的な対応をしてもらったものである。

さて、2年になって私が「室長候補」に挙げられた理由がわかるのだが、その理由を聞いて我ながら「びっくり」である。

2年になったある日先生から呼び出しがあり、先生専用の部屋に行くと、突然「入学試験の成績がどのくらいだったかわかるるか?」と聞かれるのである。

私は「理科と算数は自信があったが、国語はまあまあで、社会がチョット」と答えると、「さすがだ!」と言う返事が返ってくるのである。

詳しく聞くと「理科、算数、国語は満点で、社会で1問間違えている」と言うのである。

得点は「398点(400点満点で)」だったそうで、結局、この点数が基準となり「室長候補」になったのである。

クラスは、AからFまでの6クラスで、私はE組みであったことを考えると「5番以内」だったのだろうが、今もって「何故これほど勉強が出来たのかわからない」のである。

小学校時代は何の役もやったことが無かったのだが、担任の先生にすれば「これだけの点を取るのだから室長(級長)ぐらい経験しているだろう」と思ったのだそうである。

しかし、「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」と言うように、私の成績はここを頂点に、後は「タダひたすら下がり続ける」のである。
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無事?早稲田中学に入学する

2011-01-30 | 日記
一応無事?に入学は出来たのだが、入学式直後になにやら不安になるようなことが起きるのである。

クラス割は決まっており、それぞれの教室に行くのだが、各教室で担任の教師からいろいろな注意事項を聞くことになるのだが・・・・。

そのなかで、「教科書以外に次のものは必ず持って来るように」と言うのである。

それは、和英辞典、英和辞典、漢和辞典、古語辞典、国語辞典、の五つで、それ以外にも、学習年鑑など、必要に応じて持ってくるように言うのである。

ここで私は「ハタ!?」と考え込んでしまうのである。

和英辞典は小学校を卒業するときに「優等生の記念」としてもらったものがあるが、それ以外は持っておらず、正直な話「買ってもらえるだろうか?」と言う不安があったのだ。

何故こんなにも辞典類が必要かというと、教師が言うには「お前たちは高校2年が終わるまの5年間で6年分の教科を終了しなくてはいけない、よって、授業中はお前たちの質問に答えている暇はない」と言うのである。

このため、「授業中は常に辞書を机の上におき、わからないことは必要に応じて自分で調べろ」とも言うのである。

そして、授業が始まりと同時に、その厳しさを目の当たりにするのである。

過去に書いてはいるのだが、公立の中学であれば「理科、数学、国語、社会」と言う教科割が、早稲田中学では全く違うのである。

理科は「物理、化学、生物」の3教科に。

数学は「幾何、代数」の2教科に。

国語は「漢文、古文、現代文学」の3教科に。

社会は「政治・経済、地理、歴史(中学は日本史で、高校は世界史)」の3教科にと、11の教科に細分化されているのである。

各教科には専任の教師がおり、尚且つ、中学1年でも「普通の高校レベル」と言う有様なのです。

そもそも、物理、化学、生物、幾何、代数、・・・・と言う教科の分け方自体が異常な上に、教科書の内容もハイレベルなのである。

そして、私が最初につまずいたのが「漢文」である。

普通であれば、高校の国語の授業で数時間習う程度だろうが、これが中学1年から毎週のようにあるのだ。

漢文の授業を思い出してみるがいい。

難しい漢字が羅列しているばかりでなく、読み方の順序もさまざまで、漢和辞典を持たなかった私はたちまちついてゆく事できなくなるのである。

こうなるとどうしようもなく、漢文の次は「幾何」でつまずき、「英語」「化学」「代数」・・・・と、正に「ドミノ倒し」状態になってしまうのである。
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何を何処まで書いたのやら

2011-01-25 | 日記
余りにも間を空けてしまい、いったい何を書こうとしていたのか思い出せなくなっている。

そろそろ中学時代の話に入らなければいけないのだろうが、それ以前のことで書き残したことがあるのだが、それがいったい何だったか全く思い出せない。

寒さで何をするにも億劫になってしまい、それにつられて頭の働きも悪くなっているようだが、「老化現象」が進んでいるのも確かだろう。

後4ヵ月半もすると「満で69歳」である。

私が子供のころであれば、「69歳は立派?な年寄り」であったが、最近はかなり様子が変わってきている。

ボーリングに行くと特にそれを感じる。

ボーリングに行くような人は特にそうなのかもしれないが、年を聞くと思わず「エッ?」と言うような人が大勢いるので、私も負けてはいられないが、気持ちばかりが先走って体がついてこないのが悩みである。

さて、ここまで書いては見たが、一向に書き忘れていることお思い出せないのだ。

仕方ないので先に進もうとは思うのだが、これもまた思ったようのは行かないのである。

こんなときに使う言葉ではないかもしれないが「継続は力」と言う言葉が頭に浮かんでいる。

今新聞配達の人が朝刊を配達に来たが、こんな時間に起きていてパソコンに向かっているなんて、昔なら想像もできないような年寄りになってしまったようである。

これで終わりにしようかと思ったのだが、ついでなので少し書いてみることにする。

修学旅行(箱根)の思い出

前にも書いたように、前年まで日光に行っていた修学旅行が、理由は思い出せないのだが「箱根」になってしまうのである。

当然の事だが、皆一様に「エーーッ!」と言い、かなりガッカリした事を覚えている。

私は翌年「2泊3日」で行けたのだが、区立の中学に行った同級生は行くことが出来なかったらしいが、中3の修学旅行では関西に行けるのである。

私は中1で日光には行けたが、その後関西へ行く事はできず、いまだに関西へは行った事がないのである。

箱根での出来事は殆ど覚えていないのだが、箱根から帰る途中のバスで起きた事は良く覚えている。

バスの中が静かだったため、車掌さんが「のど自慢をしよう」と言い出したのである。

そして「一番上手な人には私が賞品をあげます」と言ったところ、同級生の一人が「○○(私の名)が勝つに決まっているから除外しろ」と言い出すのである。

結局私抜きでのど自慢が行われたのだが、最後に「お前も歌え」と言われ、春日八郎の「別れの一本杉」を歌ったのだが、生憎「声変わり」が始まってしまい、ナント「高い声がでない」のである。

結局最後まで歌うことが出来ず、「カッコつけるからだよ」などとひやかされたのである。

確かに、唱歌を歌っていれば恥をかかずに済んだのだろうが、当時流行っていた歌を選んだのが間違いの元だったのだろう。
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すっかり「正月ボケ」です

2011-01-17 | 日記
大晦日に書いて以来すっかり書く気力が無くなり、何をどう書けばよいのかさっぱり考えがまとまりません。

一度中断すると元に戻すのは大変なことで、怠け癖を何とかしなければいけないのだが・・・・。

健康面は大晦日に書いたように、特別気になる部分はないのだが、気力だけは寄る年並みに勝てないようです。

それでも、同年代の人に比べればまだましなほうだと思うのだが・・・・。



さて。

早稲田中学に合格したことまで書いて中断しているのだが、合格したからと言って「特別うれしいと言う気持ちはなかった」と言うのが正直な話です。

家が貧しくて私立の中学に行けない同級生が殆どで、かなりの児童が「中学を卒業してすぐに働きに出る」と言う時代だったのです。

私の親友も、成績は私と同じくらい優秀だったのに「家が貧しくて私立へ行けず、高校も無理なので中卒で働きにでる」と言う話も聞かされており、とても自分のことだけを喜べなかったのです。

このころの思い出に「修学旅行で日光に行けなかった」と言う事があります。

私だけが行けなかったわけではなく、この年だけ何故か修学旅行が日光ではなかったのです。

日光の代わりに「箱根」に行く事になるのですが、私を含めた多くの同級生の気持ちは「日光に行けなくてつまらない」と思っていたのですが、幸運?なことに、私は翌年日光に行くことが出来たのです、が・・・・。

日光には行くことが出来ましたが、通常、中学3年の修学旅行で行く「関西」へは行くことが出来なかったのです。

このことについては改めて書くつもりで、今日はこの辺りで終わりにします。
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