主は、わが牧者なり。われ乏しき事あらじ
主は、われを緑の野に伏させ、憩いの水濱(みぎは)
に伴いたもう。
主は、わが霊魂を活かし、み名の故をもて、
われを、正しき路に導きたもう。
たとい、われ死の陰の谷を歩むとも禍害(わざわい)
を恐れじ。汝、われと共に在(い)ませばなり
汝の笞(しもと=ムチ)、汝の杖、われを慰む
汝、わが仇の前に、わが為に、筵(えん)を設け
わが首(こうべ)に、油を注ぎたもう
わが酒杯(さかずき)は、溢るるなり
わが世にあらん限りは必ず、恩恵(めぐみ)と憐憫(
あわれみ)と、われに添い来たらん
われは、とこしえに主の宮に住まん
ここから「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)からの
抜粋です。
これは、150編の詩編の中で、これまで最も愛唱さ
れてきた歌だと言われている。
私も23編の所に
「入院中に与えられた聖句、大きな慰めと力を
与えら確信を持って、再び立つ決意を与えられた。
感謝。」と記している。
特に6節の恵みと慈しみの約束によって力づけられ
たのである。
この23編は、何千年もの間、欠乏、不安、あるい
は惑い、どうしようもない行き詰まりの中にあっ
た人たちに大きな力をもって、臨んだのである。
それは、この歌が、乏しい中で、主に養われ、渇い
ている時に憩いのみぎわに伴われた経験を通して
「主が、それを成して下さった」と告白している
からである。そして、それが私達の希望であり、
信仰の立ち所なのである。
その人が「主は」と言って神に望みを置くという、
その所に立つ事ができない時には、礼拝に出ても
単に守るべきものとして出ているだけで、そこに
は何の喜びも、力もない。
どんなに知っていても、知っている事からは、
本当の信仰のメセージ、力は湧いて来ない。
信仰は発見しなければならない。
信仰は見抜がなければならない。
信仰は与えられなければならない。
信仰は、そこで出会わなければならない。
そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの
間、この詩編を読むたびに、心の中で、アーメン
アーメンと唱えながら、この歌を歌い続けて来た
のである。なんと、素晴らしい事だろうか。