聖書と共に

すべて神の栄光のためにせよ

今日は、Ⅰコリント10章の後半です。

「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)からの抜粋。

「だから、飲むにも食べるにも、又、何事をする
にも、全て神の栄光のために、すべきである」
             (Ⅰコリント10-31)
神の栄光のためにするとは、私達の日常の具体的
な生活の中で栄光を表さなければならない、と
いう事である。
ともすると、生活は生活、仕事は仕事、どこか別
の世界で栄光を表すという錯覚に陥り易い。
そうではなく、飲んだり、食べたりという日常の
生活の中で、一つ一つ栄光を表すして下さいと、
祈るのが、私達の信仰生活なのである。

ここから「限りなき主の栄光を求めて」(チェンバ-ス)
からです。

「神が肉体をとって人となられた。」という驚嘆
すべき出来事は、いつしか、普通の子供の日常へ
と変わっていった。
「山上での変貌」という驚嘆すべき出来事は、
悪霊が支配する、ふもとの低地で跡形もなく消え
た。
「イエスの復活の栄光」は、やがてガリラヤ湖の
岸辺での朝食に、その影を留めるのみとなった。

しかし、これらは期待はずれの結果ではなく、
神の偉大な啓示なのである。

 私達は、とかく自分が世にもマレな経験をする
事を求めやすい。しかし、見事に危機を乗り越え
て行く事と、誰も見ていない所で、脚光を浴びる
事なく、誰からも一切気に留められず、神に栄光
を帰しながら、毎日の務めを果たす事は、全く
別ものである。

「祈りの人とは彼の様な人の事だ。」
「敬虔な女性とは彼女の様な人の事だ。」
と人々に言ってもらえる事を期待している。

しかし、主イエスに対する献身の姿勢が正しけれ
ば、あなたは既に、誰にも気付かれる事のない、
素晴らしい高みにまで到達しているのだ。

「私には神から頂いた素晴らしい召しがある」
と私達は言う。
しかし、どんな、つまらなく思える義務であって
も、それを神の栄光の為に果すには、私達の内に
受肉された全能の神が必要である。

聖徒の人生の価値を試すのは、成功を収めたか、
どうかではなく、人として忠実な歩みをしたか
、どうかである。

私達の真の目標は、人生で神の栄光を現す事で
あり、日常に起こる様々な状況の中で
「キリストと共に、神のうちに隠されている」
いのちによって、生きる事にある。
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