(榎本保郎著)からの抜粋です。
「あなたの義をもって、私を助け、私を救い出し
て下さい。」 (詩編71-2)
私達は、好むと好まざると、年老い、そして力衰
えていく。そういう中にあって、一体、何により
頼んで生きていくのか、という事は大喜な課題で
ある。
スウェーデンのニグレン(ニーグレン)という学者
が、「神の義」とは、神からの義である、と述べ
ている。神が私達に与えて下さる義だと言うので
ある。
72編の詩人の信仰も同じ事である。
自分の中には、いくら探しても、自分を支えたり
、自分を救ったり、あるいは自分を助けたりする
義はない。けれども、私達は神の義によって装う
ことができる。
パウロの手紙によく出てくるくる
「キリストを着なさい」という言葉が、その事な
のである。
神の義をもって私達が助けられるとは、イエス・
キリストが死んでくださった事によって、私達は
義とされるという事である。
「神はひとり子を賜うほどに、この世を愛して」
その愛のよって、義とされているのである。
ギリシャの哲学者ソクラテスの有名な言葉に、
「汝自身を知れ」というのがある。
しかし、ソクラテスが知っていた自分は、自分
の全てではなかった。なぜなら、神に愛されて
いる自分に気がついていないからである。
多くの人は、神に愛されている、という事を
知らないで、自分の力と知恵だけで生きていく
。そういう人生を歩んでいる。
そういう中にあって、神に向かって
「あなたの義をもって、私を助けて下さい。」
と言える私達は、本当に幸いである。
どんなに失敗しても、イエス・キリストによっ
てあがなわれ、神の前に義とされていくから
である。
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「キリストは多くの人の罪を負うために、一度、
献げられた」 (ヘブル9-28)
「彼は木の上に懸かって、みづから、私達の罪
を、ご自分の身に負われた。」 (ヘブル10-14)
「我らが罪人(反逆者)であった時に、キリストは
我らの為に、死んで下さった。……
今は、その血に頼って、我らは義とされたなら、
まして、彼によって、怒りより救われる」
(ロ-マ5-8、9)
「その肉体なる幕を経て、私達に開かれた、
新しき活ける道」 (ヘブル10ー20)