それは簡単な一言ではある。
「出来るんならやれ」
しかし、当事者にすると、そこには重い問題がある、場合がある。
創作は、その作者の把握してる現状から「こうなるべき」そう、強く主張する。
パワーで押し切る場合もあるが、今は理論性の方が大事だ。あれこれそうでだから、それは無理じゃない、現場の意識次第である、その一歩を踏み出すべき!
その時、その「現場」は、貯金がほぼ無くなったゲームセンター、だったりする。
作者は、自身の理論性、或いは信仰に絶対の信頼を持ち、それを創作に載せて同意を得ようとする、のだが。
もちろんその想定する「現場」と言うのが、”その状態で”借金が出来る、そう言う環境の事だったりする。
それ以上の事は、個人の視野範囲で把握するのは、ほぼ不可能だ。門外漢でさえあり、その業種の経緯は作者には詳しく解らない、プライバシーでさえある。
作者も実際には、”それ”は懸念として把握はしていて、作品は「ってなったら良いな」程度にしている、”つもり”なのだが。その実現可能性に具現性があるほど、そして”その”主観として反論し難い程、それは次第に、絶対と化していく、訳だ。
”それ”が出来れば、何もかも良くなる。
その時、それは不意に、奇妙な凶悪性を発し始める事には、成る。
個人的な把握で、”今”の状況で、そのゲームセンターが借金をし、設備その他を拡張して上手く行くか?と言うと、かなり懸念だ。今も尚、明確に利益性が継続的に期待し得るゲーム、と言うのはあんまり見ないし、聞かない。現場の理解は尚更だろうか、今はまだその時じゃない、と言う理解はでも。不意に、妙なパワーに晒される。
今やらなくてどうするんですか?!!
この是非、ではある。
そして”これ”は、相手が動かないと、次第に剣呑さを増し始めるのだ。
現場?的な実感として、これは実際に自分の身に起きた話、ではある。信仰の幸い、だろうか。それの最後の標的は自分だった、と言うのは多少の幸運とは言えて。”相手”からの要求は実現可能性が低い、「100個で一万円なら一万個で百万円だろう?!」それでしかなく、そして相手はその時、”それ”の反論を聞ける精神状態じゃ無かった。それは何から発生したか?と言うと、実際には”この”小説である。
問題発覚後、ストリードを張る事で、それは今の所、沈静化はした。
単純に何が起きたか?と言うと、単純に、ウケた、のだが。それが広がるウチに、何かの絶対性を持つようになった、訳だ。イメージは正にこれで、多分「被せた」作品なのだけど。
”自分の作品が”人々の前で、こんなイメージで歌っているのだ、と言う幻影には中々に快楽ではある。このアイドルのブロマイドが売ってたら迂闊な事をするかもしれない。
昭和の頃は、この存在は実在した(様な気がした)訳だが。
この昭和にありがちな、或いは「自分の創ったアイドル」は、自由と共に結局は、自身に実現可能性の低い要求をする様に成って行った、訳だ。
心理的な安心感と、高揚感と。そしてありがちな帰結ではある。
現状、昭和の頃の「これ」は、或いはインターネットの存在も有り、短絡的には要求し難い状況が有る、自分に返る素行の良い作品ばかりじゃないのだ、”それ”を他者に向けたら、うっかりしたら殺人兵器にさえ匹敵する。基本的にだから、創作は昭和の頃のようには売れなくなった、のだ。かなりの明確なストッパーと管理が無ければ、それは危なくてしょうがない。インターネットに存在した「トラフィックの破綻危機」は果たして単なるミスだったか、それはまあ、神のみぞ知る所だ。
ストリードを張ってしまうと、個人創作の範囲、それは非常に小さくなる、逆に問題も起きにくくは成るが、期待し得るそれでは無くなって。
とは言え、ストリードの連携それは、その美しいアイドルの見せた夢を「諦めろ」そう言う訳だ。
平成は、昭和からすればずっと、雨に沈んだ時代だったかもしれない。