責任の問題ではある。
「大衆は神である」
その思想を始めた存在は、その言葉の責任は取らねばならないし、問われても居る。
本当に大衆とは神なのか?
なら、”大衆”の為にやってれば、救われるのか?
発起、発想の理由は単純で、主にキリスト的な逸話の「神」を、「大衆」に置き換えると大概は合致したから、だ。キリストは大衆にこそ選ばれたし、ソドムとゴモラは、大衆に否定された結果として壊滅した。バベルの塔も同じく、王は大衆に否定された結果、その塔は志半ばにして崩壊してしまった。モーゼは大衆に支持されつつも、結末は”その支持を失って”放浪する事に成る。モーゼの逸話はソロモン王の逸話と似ていて、少し曲解、というか言い訳めいた物は有る、気はするが。理解する上では、この合致が外れた事はほぼ無い。
大衆は神である。
だから、”その為に”仕事をする限り、神は救ってくれる、筈だ。
ともかく創作においては大衆に認められる=ヒット、利益、である。
大衆が認めてしまえば、それは一般論として如何に道徳に反して居ようと必要な物だ。
で、大衆は何を認めてきたか?
ともかく利益に成ったのは。
インターネット時代は、この考察に対して非常に上手く機能してくれる。
これもまた、”大衆の認めた機構”である。神に認められれば、それは存在するのだ。
現状はどうか?と言う点で、そこは屁理屈的に微妙ではある。ともかく神の部屋、星の赤子の居場所、そのイメージは多少異なっている、と言う事は言える。古い部屋は行き詰まりが有る、結局最後、「自身の必要性を問われる」のだ。新しい部屋は、ともかく生き残る為には人力発電機を回さねばならない。命が続く様に働く時、逆にそれは自身の必要性それを実感し得る。”この部屋は続く”が、古い部屋はもう、続かない。
と言う時、今自分は何処にいるか?そして何をすべきか、だ。
仕事として求められるのは、あくまでも人力発電機を回す、そこではある。その結果として今日の、明日の糧が出てくるのだ。ただ、その時には不意に、問題もある、「不用は捨てねばならない」のだ、”神の意思”として。ともかく自身の不用だ、それを明日の糧にする為には、廃棄し、発電機を回さねばならない。
それ以上考える必要は或いは今は、無い。
部屋の構造に問題は見えない。
古い部屋に或いはまだ、住人が残っているかもしれない、だけだ。
気にするな。
そんな気もする。