ここから先はオカルトだ。
創価学会は確か、輪廻転生を否定してる。
結果、”そこ”に問題が残ってしまっている、様だ。
「地獄は何の為に有るのか?」
簡単に言えば生前に残る、「罪の償いをする場所」ではある。”そこ”で自身の思想か、その帰結として発生する地獄を嫌と言う程味わって、「駄目だこりゃ」自身がそう認めて初めて地獄からは脱出出来る。多くの「宗教」、それとしては”これ”を設定し、問題が発生しない様にする、訳だが。誰だって「良い子」を求めるなら、宗教、倫理?の存在は実は重要である。しかし制約は単に「故郷に帰れませんよ?」それしかない。「良いですよ別に」それに対しては実は、地獄の存在は意味がない。結果、地獄を通らず罪を背負ったままの魂が、実は今、現世に産まれてる可能性はかなりある、訳だ。
創価学会は逆に、これらの魂を受け入れている、訳で。
”ここ”の思想では、輪廻転生はあり、子供は生まれる場所を選んで産まれてくる。産まれた事に対しての責任は、だから「本人にも幾らか発生してる」訳だ、自身も望まなければ、そこには産まれないから。そしてその時、”そこ”に居る魂が善良なそれである、と言う保証は実際は無い、重い罪を背負いつつ償ってない可能性は実は、多々ある訳だ。親の方にしろ神様じゃない、相手を見誤る場合はある、騙された、と言う場合は実際は結構、有る。”それ”を避ける為にも、宗教の加護、それは重い訳だがしかし、そこには面倒も「解らない」理不尽も付き纏う。結果、軽んじる果てに、精神の奇形が或いは、自分の子としてそこに居る。
「なんでこいつ、こんなゴミに成っちゃったの?」
そいつが生前、実際にはゴミだったからです、と言うのが理由には、有る。
この時、親にしろ苦渋だが納得は出来る、「騙された」のだ。良い子です、大嘘だった。
或いは因果だ、思想的な帰結として、それはそこに”そう言う隙があった”訳で。
…しかし”それ”は、創価学会にとっては「何かの敗北」ではある。
思想に欠陥があった、そういう話だ。産まれた子には罪は無い、訳じゃない。
認めるか、認めないか、だ。
どうしようもないクズが、その思想の帰結として”そこ”に居る訳だ。
それはその思想としての結末ではある。その存在こそが、「その思想の帰結として」居る。
それでも、彼は王なのだ。
その結末は、果たして。