この辺は、アメリカの問題だろうか。
アインシュタインの相対性理論は、結論でか、「部屋に居る一人」でしかない。
小さな部屋がある。
トイレもあり、机があり筆記用具があって、食事の出てくる窓が有る。
「何故?」
それは、解らない。物理的な観察の結果、それはそこに有る。
現状を続ける上では、生存に困る事は無い。机を前にし書き物をしてる限りは、料理は出てくる、”そう言う環境”だ。
「何故?」
それは、解らない。物理的な観察の結果、それは”そういう状態”だ。
この部屋の未来はどうなるのか、それは解らない。いつ何時、何が止まっても不思議じゃない。或いはただ、人に出来る事は、神に祈る事くらいか。
これは「2001年宇宙の旅」と言う映画のラストに出てくる、奇妙なイメージではある。いわゆる「スターチャイルド」と言う概念、”それの意味”かもしれない。アインシュタインは物理学者だ、仕事としては”ここ”までであって。しかし、後世の人々か、それはそこに彼を押し込んでしまった…そう言うのは或いはある。
ともかく”この”イメージを主体とする時、どうしても不安と悪夢はそこに有る。
特に、トイレが詰まったらどうするのか、御飯が出てこなくなったら?
アインシュタインの死後か、これはより深刻さを増しているというべきか。
食料は、まだ結構、出てくる。
しかし、トイレは、詰まってしまった。
環境はどんどん汚染されて行く、それを打開する術は?
実際には、「詰まってしまった」と言うより、不用を捨てる事に危機感を持った、と言う事に成るのかもしれない。全ては有限である、だから、食料もいずれは尽きる。ともかく神を前にして人間はそこに有る何かでしかない。その中の一部が「ゴミ」として廃棄される事に忌避感を持った、その反乱、と言うのはある。
…実際と言うか、その危機感は”ここ”では理解し難い感覚だ。”ここ”の概念としては、その部屋に対になる「鏡の世界」が隣接してあって。表と全く同じだが鏡面として存在するその世界にも、表と全く同じモノが設備されていて。「異世界」パラレルワールド、その、見えない環境が存在する。
両者の世界は少し逆転して繋がっている。トイレに捨てられた物は、対の世界では「食料の原料に成る」のだ。ただ、この概念ではそこに有るのは机と筆記用具では無く、人力発電機ではある、時代の問題だろうか。人力発電機を回すと、”裏の世界でトイレに廃棄されたモノ”を原料に食料に変える機構が動き出し、それは食料に変わる、それは逆も真なり、だ。だから、廃棄するというそれに問題は無い、むしろしない方が危険。ただやっぱり、人力発電機は廻さねばならない、のだ。
裏の環境で不要な物は、表の環境で必要、逆も真なり、という理解で両者は繋がっており、結果、この環境は不足も過剰も無く、理解としては永遠に続いてしまう。
継続させるだけなら、ここには無限はあるのだけど。「面白い?」と言われると、そこには疑問がある。
問題は、アインシュタインの世界では、何かの行き詰まりがあるが、”ここ”の理解による世界には無い、しかし。「アインシュタインとあげちう、どっちが”上”だと思っているのか?」そこには重い混沌が、幽霊の様には発生してしまう。
アインシュタインの世界では、「ゴミを捨てる事が出来なくなる」瞬間がある。
だからもやの様に、それはそこに、有るのか無いのか解らない状態で、残っている。
不快が膨らんでいく、汚物が時間と共により汚物と化していく様に、しかし。
”それ”を捨てる時、自分もまた、或いは。