歴史にIFは無いのだけど。
ABCD包囲網は、日本が引き下がったら、解除されただろうか?
日本はその時、引き籠ったら、戦争をせずに済んだのだろうか?
「愚かな選択だった」過去の存在へそう言うなら、或いはその実証をする必要はある。
この辺の執着も、何となく、アインシュタインの感覚っぽい。
彼は、私生活としてはあまりうまく行っていなかった、と言う話。
家庭内暴力もしてて、最初の妻とも別れている。
彼にとっては「やむを得ない選択だった」かもしれないが、妻の側にしたらどうか。
それはその人にとって、何を意味するか。
自分は物語を基準に考えるから、だろうか。観点がどうもメランコリックな気はする。ともかくもし?妻の側がその離婚に対して「死んだ」生きながら殺された、と言う理解に至っていたら?アインシュタインは、”犠牲を容認した”殺人を犯した事に成る訳だ。
男女間の価値観の違い、そしてその傾向の問題は重い訳だが。
それが原因として、アインシュタインの思想、その極論化だとしたら、その事例は、後に繋がっていく。
世界は、アメリカの、そこに居たアインシュタインの、或いは「相対性理論」それを土台にして、アメリカを軸にした発展を始めた。
しかし?それはアインシュタインの思想を次第に極論化していく事に成り、その世相は犠牲の容認、そこへ繋がっていく。
ABCD包囲網は、そんな「最後の帰結」として有るモノだ。
それは、何を意図していたか?だ。
結局、その時の世間は、誰かを犠牲にしなければ、富を得続ける事は出来なかった。
結論では、日本が生贄に選ばれた、のでは。
この実証として、「同じ状況」を置いて、現実の反応を見る、時。良くも悪くも、「殺意」は立証し得る状況、それは有って。しかし?「じゃあ他に方法が有るとでも?」それにもし”無い”なら、それは相手の殺意も物理的でさえある、「やむを得ない」手段だ。
と言う時の、立証もまた、「同じ状況」を創った上での、”物理的な”結果でしか言えず。
「正義は勝つ」それが、歴史上の定理だ、と言うのが一応は自身のスタンスではあり。太平洋戦争でも、アメリカは最後、核兵器を使ってしまった、「相手を殺した」殺意を見せた、訳で。良識的感覚で言えば「罪人」になり、アメリカは、或いはアインシュタインは、「王の権威」その資格を失った。しかし、”それ”が日本に移動した、にせよ。日本は何故当時、引き籠らなかったか?
ABCD包囲網をされたら死ぬと思ったから、だ。
つまり、この時点では、日本も選択か、思想を間違えている。
間違えている?
それはどうだろう。
ともかくアインシュタインは、「増やす」侵略せずに経済を発展させる、内需拡大までは出来なかった。物理学者に経済を問うのも問題だが、結局「王の権威」それに依存するなら、本人の意向はともかくそうなっていく。対して、今の「王の権威」その思想はどうだろう。引き籠れば、或いは攻めてくる側が負ける?時、帰結的には問題も無いのだが。
相手は負けたか、否か。
ただ、「認めない」と言うそれもまた最後は、或いは個人的な感覚かもしれない。
相手の”それ”は殺意だ。
世界的な権威でさえあるそれに、立ち向かえたのだろうか。
罪を問われてる女性が居る?