実際は酷いとは思う。
何だか、良く解らない王が居て、貴方の創作が当たるか当たらないか?は”それ”が、王がネットに放流してる創作?思惑に該当してるか否か?でしかない。該当してても先約が既に居たら大概は怒られて否定されるし、居ないと言っても、それが利益性?に繋がってくるか?と言うのは疑問だ。ともかく、上手く見つけた、「当たった」場合、そこから貴方の躍進は始まる。そこを足場にする限り、貴方は自身の衝動のまま、不可侵なる特別へと育っていくのだ。「新世紀エヴァンゲリオン」それもまた、そんな成功例の一つ、である。
その先に居るのがしょぼくれたおっさんであっても、それはその時、些細な失望ではある。
「牢陽帝」とか名付けてしまう自分が居て、だから?と言う気もしつつ、状況に対して少し思う事もある。自身をわざわざ、「大賀さん」紛争解決機構、”その”枷の中に入れた状態で、一文字10円の対価でしゃべり続ける、或いは全ての根幹。言葉やその他は広がりつつも、「牢」で反射される事でそれはエネルギーに変わる。その内容の是非で、自身の環境も変わる、それが好ましくエネルギーを発する限り?それに依存する世界も安泰だ。その個人にしか、この環境の中で過ごす事は出来ない、特権として産まれた存在の責務だ、それに依存し、外の世界は何かの理想の中に有る。平成は、「大賀さん」を用意しないまま、更にそこに「王の権威」では無い存在を入れた事で、事態の破綻に至った。それを補正した、訳だが。
”この”環境だからこそ、だ。この動画の、この雰囲気は意味がある。自分の様な世代、それが目指したか、見ていたか、その世界がここに有る。願い、目指す先に、貴方の夢見た理想はあるのだ、この世界はそれを実現し得る。何かの崇高ささえ感じる様な、そんな…一体感と言うべきだろうか?それは或いは、現実に有りえるのだ。
細かく言わなくても、それには多くの、多すぎる前提はある。
一万人の中で一人か二人がそれに該当する時、その他99%以上は敗北の苦渋に耐えるのだ。
”これ”を理想と言うのか?
ともかくエネルギー、経済的な問題は、現状の想定では発生しないにしろ、「牢陽帝」に近い存在はそれを多く得る事が出来、逆に遠ければ違う、と言う構造はこの時、昭和の悲痛、”以前”と同じくある。「牢陽帝」それを否定する存在は、この環境では反逆者だ。この何かの楽園から追い出される。以前は結果で、そこには「ユダヤ教の王」かが居て、それは「牢陽帝」その視点からすれば「異星からの侵略者」というニュアンスで脅威として有った。それの侵略を防ぐ事が、世界の平和だった、がしかし。
ともかく今は、「外」はあり、外にこそ「大賀さん」それはある。そこでの決定は、「牢陽帝」にしろ、逆らえない何か、だ。昔よりはマシだ、いや、昔も似た様なモノだったろうか?想定では、昔の”それ”は「牢陽帝」自身だったが、今はテレビゲームだ。牢陽帝のネタを土台にしなくても、外の環境には利益性がある。とは言え、そこに居る全ては「牢陽帝では無い」訳で、そのアイディアが売れるか否かに、確実性は無い。全ての場合にまず苦渋の様なモノはあり、それを耐える先にしか利益は無い。
問題は無いが、疑問はある。
快楽のまま、気づくと全てを失う可能性しかない、それを隠した理想郷?か、それとも、苦渋を耐えつつも、技を磨くその先に有る安定と栄光、か。
今も世間は、前者に何故か、夢を見ているのだ。
それが平成に出来なかった事への妄執か、或いは愚かさかは解らない。
大衆は神であって。