辛い一言はある。
「そんな古いの、もう使えないよ」
その時、自身もまた、ゴミとして廃棄される運命だ。
否定する所に理由と、そして多くの同意が有る、しかし。
「2001年宇宙の旅」その結末は、虚構だ。
相対性理論の結末に有る「解らない」を曲解かした星の赤子、”それ”は、存在しない。
物理の秘密を解き明かそうとする先に、虚構を真実だと言い切ったそれは、単純な二文字で断罪されてはいる。
結果、そこを目指す”全て”が、「古くて使えない」として、切り捨てられる訳だ。
「昔は頑張ってた」それを思い返しつつ、その全てが徒労だった、そんな帰結。
現実と現実が、何だか停滞する歪みと悪意を産んでいる、気もする。
新型コロナウイルス「covid19」は、そんな煮え切らない存在に変わって出てきた物、かもしれない。”本人”も言っているのだ、「最後は大賀さんに聞こう」だから、その帰結として解答。「無理が通っても道理は引っ込みません」その時は等価に断罪します、そんな断言を体現する何か。”これ”の拡散は既に止められず、その発症を抑える事くらいしかもう出来ない時、その言葉は意味を持つ訳で。
経緯でその昭和の断言と、平成の惰性は、令和で否定される結果に成った訳だが。
その時、「古い」それらは総じて、もうゴミとして廃棄される運命ではある。
マクロで見れば道理だ。無理を通して、どれだけの生贄が発生していたか。
その果てに彼らの栄誉と地位、その境遇がある、しかし、道理は引っ込まない。
経済を優先する時、創作は特にその、「無理が通れば」それを否定される。
3DSを改造すればPS5になる、訳じゃないのだ、それは有り得ない。
「なんか上手くやれば出来るんだろ?」”それ”が通った時代と今と、境目はある。
いまもまだ、”これ”は逆効果ではある。
それだけ層の厚い、シニア世代か、その瓦礫ではある。
「無理が通れば道理は引っ込む」のだ。
まだ、この騒動は続く。