同人の本懐、かもしれない。
同人誌を製本する、一冊1000円で、100部。
売り先には、或いは100人前後の人々がいて。
売主もまた、”それ”を買いに行く一人でしかなく。
その先に、サークルが100とかある訳だ。
ともかく、本は完売した。
なので、”全て”のサークルの本を、一冊ずつ買い漁った。
他のサークルもそう、だ。購入しつつ、売っていて。
ともかく、見た目上は大盛況!に成っているが、”儲かった”サークルはほぼ無い。
或いは印刷代、交通費その他、全て”赤字”だ。
どのサークルも完売だが、どのサークルも、その売り上げの全てを購入に充ててる。
ともかく「楽しかった」ので、次も、開催する事に成った。
それがコミケの始まりと言われていません。
この時儲かったのはまあ、印刷屋くらいだろうか。
それでも、彼らの行為は世界に商業的なプラスを招いては居る訳だ。
「同じ人」の集まりである、その場の流儀、そう言うのは有って。
この辺を、より効率的にやっているのがニコニコ動画、ではある。
必要なのは、ショバ代だけだ。結論で、売った分は買うのがルール、なら±0なのでは。
じゃあ、無料で公開してても同じじゃん?
それがニコニコの始まりだった可能性は否定出来ない。
ともかく、独裁創作、同人的な、遊びで創った”そう言うの”は、換金が難しい。
しかし?前に有った話だ、100000000円と書いた紙は、一億円と書いた紙と取引できる。
「そう言う場だ」としたら、貴方のその作品も、無意味ではない訳だ。
100000000円が、一億円に成り、一億円が、100000000円に成っている訳だが。
等価交換された時、そこには或いは?「価値に成った」実感は、有る。
同人であっても、「売れる為に!」創る、それは正しい。
単にその場としたら、”その分は買わねばならない”だけだ。
”それ”に意味を感じないなら、同人活動は、止めた方が良い訳だ。
良くも悪くも、「同人」と言う、巨大な怪獣の様な、その一部に成ろう、そんな。
そこに何かの幸せを感じるか否か、それは人それぞれ、かもしれない。
平成は、都合のいい話を、自分も求めてしまった時代ではある。
何だか100000000円が一億円になる夢、30年続けて結局は「無かった」訳だが。
「売れた分だけ買っている」と言う理解なら?プラスに成らなくても道理だ。
自身にとっての一億円が、他者での一億円になるかどうか?は解らない。
ともかく共有し得る価値観同士でのコミューンが寄せ集まっている界隈ではあり。
意識の問題だろうか。
でも、その前に心の余裕は必要なのかもしれない。
買う方が先か、売る方が先か、それは難しい話だけど。
100個売るつもりなら、100個買ってくる、そのつもりには成って無かった、のは、昔の失念ではある。
そもそも同人誌即売会場に、商業主義を持ち込むのはナンセンスなのだ、が。
表現として「独裁創作は売れない」と言うそれは、果たして等価だろうか。