あげちうのブロマガ

無課金勢の無課金な願いと呟き

理解の起点はある。

「誰もお金を持ってません」

その時、誰からお金を貰えば良い?と言うか、お金をどうすれば良い?

ふと気づく、ここには市場経済どころか、”通貨その物が存在しない”訳だ。だから、どれだけ価値を見せ、労苦を提供しても「お金」を得る事が出来ない。その上で、「お金」が必要、と言う状況があって。

お金を創らねばならない、訳だが。

「お金って何ですか?」

ここに微妙に、同意の持てない「価値観の相違」が有る。

まず「良い物を創れば売れる筈」その、”良いモノ”とは何か?だ。この定義が、結局は独裁者、或いは”神様”毎に違っていて。理解としては「経済圏」同一通貨による流通が通用する範囲、それが一つの独裁性?による領域、なのだが。それはその経済圏同士で多少異なる。

にも拘らず?ドルは円になるし、円はユーロになる訳だけど。

一応理解としては、通貨で有れば、何かの共有する価値観、それが有る、訳だ。

それは何か?

それが解れば、お金を「創る」事が可能になるのではあるまいか。
偽造紙幣では無く、お金その物を産み出す、そう言う行為への可能性は、ある。

ともかく解っている事は、”これ”が、その「通貨が共有している何か」が、「全ての通貨にとっては異質な概念である」事かもしれない。

ドルにしたら、起点は聖書一冊の値段だったかもしれない。
円にしたら、米俵一つの事だった、かも。
ユーロは何を起点にしていただろう?それは解らない。

ともかくこの、「通貨の起点になった事例に共通する感覚は?」だ。

何にせよ、その通貨に慣れていても、その通貨の価値感はいったん捨てねばならない、それは多分、間違いない。その上で、ある種、物理的に、「通貨に共有する概念とは何か?」そう言う感覚の模索は必要だとは思う。

で、”それ”が、他者、”大衆”だ。世間「全て」の同意を得られねばならない、訳だ。理解としてはそれを通る時、そこにそれは「有る」と、認識される。発起した一人の「良い」に対し、世間すべてが「良い」正しい、そう同意する時、それはそこに発生する。


その時、ともかく解っている事は、「働く」それは人間である限り、どうやっても必要になる、と言う事だ(´・_・`)。


逆に言えば、”ここ”に、大衆の同意を得やすいモノ、通貨の起点になる感覚、”それ”が有る、訳で。

「仕事しろよ」

自分はしてなくても、人は他人に要求する。それは必要な事だ、自分にはともかく。

そしてこの時、その「仕事しろ」それは、もちろん同意として、自身にも要求される。
「平等かつ対等、公平である事」それも要求として、非常に同意が得やすい。

この理解の先に、価値の起点はある、筈だ。だから、お金は創る事が出来る、筈だ。

ただ、それはつまり、今の理解で言うと「平等かつ対等、公平である事」と、「働く」を共に満たす所にしかない、と言う事ではある。

「お金を創る」それは、今もまだ、面倒な話だ。

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