あげちうのブロマガ

一つの世界と排斥されるモノ

気持ち的には、落ち着く一言は有る。

「エヴァンゲリオンは終了しました」

何というか、何かの戦争の終結、それを示す…、そんな。


それは多分、”自分の”だろう。皇帝は…居場所を探すのだが。それは今、世界の中では「まだ死んでいない」その、昔飼っていたペット、”そこ”にしかない。もちろん、墓の中、だ。ただ何となく、自分も「ガーディアン 白き復讐の悪魔」なんて小説をその後書いてるから、だろうか。今も何だか、”それ”はまだそこに居る様な、そんな気はしていて。

…ただ、「皇帝」は今、”そこ”にしか居られないのだ。

…溜飲は、下がるのだが。

道理の問題はある。中華思想の皇帝それは、あげちうに寄生し、何かの特権を手に入れ世界の影の皇帝と化したが。その結果で世界は荒れ、責任を問われ、やがて消えていった、物語的には。しかし、「大賀さん」紛争解決機構が有る時、”その上で”負けたに過ぎず、負けで下がる限りは、生存権は侵害されない。不思議な位に、”そこ”へのヘイトはまだ集中する。皇帝とは独裁性の塊だ、自分の意向が通らない事など有っては成らない。それは、実際には「平成の文化」その根幹を成していた…不意に、昔のゲームを遊ぶと発生している「衝動」に、ちょっとびっくりはする。

紛争解決機構など不要である。
自分に逆らう全てを倒せば、それで平和は訪れるのだ。

「すっきり」その帰結は、衝動的な物ではある。「実際には有り得ない」し、それは他者との軋轢の元ではあり。また一つのゲームが”それ”にある程度の達成が有る時、他のゲームは存在さえ許されない、実は「そんな現実」があって。平成とは表面的な理想とは異なりグロテスクな時代だった、それは、良くも悪くも大災害の発生と言うか、”そこ”にも現れているのかもしれない。

その時、「エヴァンゲリオンは終了しました」その帰結は、そう言うモノ全ての終了を意味する、のだ。

良くも悪くも、その時、平成にあった文化の殆どは、否定される事には成る。「これではダメだ」全体で考えた時、中華思想の皇帝その存在は許されない。「ほどほど」に抑えておく必要はあり、その時作品での覇権”それ”は難しくなる。「こんな素晴らしい物が何故認められないんだ!」その想いは、敗北と言う結果に潰えてしまう。

今は。ストリードの連携に対応してない創作は、存在そのものが許されないのだ。
だがその時、古くそれらを主導していた「中華思想の皇帝」それは、存在する場所を失うのであり。

因果応報、それではあって。今、”自分が”されている事を、同じくされる事になるだけだ。未来は無い、牢獄の中だ。或いは死ぬまで。「正義」その視点で見れば、それは道理ではあるが。

果たしてそれは、皇帝がしていた「∀BCDE」その世界だろうか。可能性はある、理不尽な排斥はやがて世界の破綻を招くのだ。その時、皇帝の存在はその起点に成り、その「ストリードの連携」を提唱した存在が、そうでないと言う保証はどこにもなく。

何より、「死んでない」と言う事の意味は。

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