⇩ 海南市井田にある祖父の鍛冶場にて
今から約40年前に撮影

・『巨人、大鵬、卵焼き 大鵬幸喜 私の履歴書』大鵬親方著
相撲部屋は、住み込み修行の場ですが
大鵬親方の著書(p238~)に、
『ふき掃除、洗濯など、一から修業して、力士として人間として、だんだんと成長していくことが大事だ。』
とあります。鍛冶職も同じで
日常の雑用を、兄弟子や後輩らと淡々とこなしながら修行に明け暮れるという
修行過程を持ちます。
今では、そういう良き古き
伝統はなかなかありませんし、私の道場でも
今のところ出来ないのが残念です。
技術の習得だけ、つまりいいとこ取りだけじゃ
人間としての修行ができない。
じゃあ、別の次元の修行場をもつ事
それが内弟子制度です。
単に技術の習得だけだと
親方がどっちを向いているかがわかりません。
つまり、気持ちが分からないことだと思います。
気持ちが何故大切なのか、と考えるまでもなく
合気道でも私がたまに行っている原則の中にもある通り
最後は「氣」なんです。
技術習得には「気持ち」がつきもので、簡単に言えば車の両輪みたいなものです。
「岐阜県警レスキュー最前線」山と渓谷社 1600円
著書の●P179にも
『救助にしろほかの警察活動にしろ、根幹をなすのは「気持ち」だということを痛感した』
・山の救助にしろ携わって教えられたこと 奥谷治朗、高山警察デスク より
以上は、奥谷隊員の若いころのある山岳救助場面で
相手、つまり遭難者の命を救う「気持ち」が薄く
、ある結果となり、
そのことで心が痛み、
その救助事例あっての自省の言葉《根幹をなすのは「気持ち」だ》
ということです。
武道、鍛冶職、山岳救助にしろ
技術だけの世界のように見えるものは現象だけ
表面のことは、比較的容易に真似ができます。
しかし、対して
目に見えない「気持ち」という「こころの技」というものがあります。
武術しかり、鍛冶の鍛練術しかりで、
この心の技「気持ち」と目に見える業が伴ってこそ
『心身統一』、『心身一致』『事理一致』・・・・
という人間としてのある種、最高形態に至るものだと思います。
今から約40年前に撮影

・『巨人、大鵬、卵焼き 大鵬幸喜 私の履歴書』大鵬親方著
相撲部屋は、住み込み修行の場ですが
大鵬親方の著書(p238~)に、
『ふき掃除、洗濯など、一から修業して、力士として人間として、だんだんと成長していくことが大事だ。』
とあります。鍛冶職も同じで
日常の雑用を、兄弟子や後輩らと淡々とこなしながら修行に明け暮れるという
修行過程を持ちます。
今では、そういう良き古き
伝統はなかなかありませんし、私の道場でも
今のところ出来ないのが残念です。
技術の習得だけ、つまりいいとこ取りだけじゃ
人間としての修行ができない。
じゃあ、別の次元の修行場をもつ事
それが内弟子制度です。
単に技術の習得だけだと
親方がどっちを向いているかがわかりません。
つまり、気持ちが分からないことだと思います。
気持ちが何故大切なのか、と考えるまでもなく
合気道でも私がたまに行っている原則の中にもある通り
最後は「氣」なんです。
技術習得には「気持ち」がつきもので、簡単に言えば車の両輪みたいなものです。
「岐阜県警レスキュー最前線」山と渓谷社 1600円
著書の●P179にも
『救助にしろほかの警察活動にしろ、根幹をなすのは「気持ち」だということを痛感した』
・山の救助にしろ携わって教えられたこと 奥谷治朗、高山警察デスク より
以上は、奥谷隊員の若いころのある山岳救助場面で
相手、つまり遭難者の命を救う「気持ち」が薄く
、ある結果となり、
そのことで心が痛み、
その救助事例あっての自省の言葉《根幹をなすのは「気持ち」だ》
ということです。
武道、鍛冶職、山岳救助にしろ
技術だけの世界のように見えるものは現象だけ
表面のことは、比較的容易に真似ができます。
しかし、対して
目に見えない「気持ち」という「こころの技」というものがあります。
武術しかり、鍛冶の鍛練術しかりで、
この心の技「気持ち」と目に見える業が伴ってこそ
『心身統一』、『心身一致』『事理一致』・・・・
という人間としてのある種、最高形態に至るものだと思います。