アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

ツクヨミ 月神

2015-05-14 20:39:56 | 神仏





顕宗紀[編集]
ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代(神代から人代に移行した後)にもまた現れる。『書紀』巻十五の顕宗紀には、高皇産霊をわが祖と称する月の神が人に憑いて、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)に祭らせたという記録がある。これが山背国の月読神社の由来であり、宣託された壱岐にも月読神社が存在し、山背国の月読神社の元宮と言われている。


『古事記』
『古事記』上巻では、伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成され、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月読命は「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切無い。伊邪那美神のいる夜見の国という説もある[9]。

『日本書紀』
神代紀
『日本書紀』神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊を生んでいる。

『続日本紀』には、光仁天皇の時代に、暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜したところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たので、荒御魂として馬を献上したとある。

「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深いつまり、ツクヨミは日月を数えることから、時の測定者、暦や時を支配する神格であろうと解釈されている[2]。

2: 本来はツクヨミとは関係のない月の神を祀っていたものが、後に神話に登場するツクヨミに習合した神社。代表例は出羽三山の一社の月山神社(山形県東田川郡庄内町)である。全国にある月山神社の多くは、出羽三山の月山神社から勧請を受けたものである。

3: 京都の月読神社[15]は壱岐市の月讀神社から勧請を受けたものである。
4: 姨捨山にある冠着神社の祭神は月夜見尊と言われているが、詳しい由来は分かっていない。(姥捨山自体は月の美しく見える場所として古来より有名である)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%A8%E3%83%9F

ほぉ~月山と関係あんのか。


こっから下は文献にないだろうから あたしが補足するとこうだ。

月神の発祥は隠岐

月読みは暦をよみ、季節を把握する 潮の満潮と干潮をよみ 収穫に対する指針を示す

月は電気のない地域での唯一の夜間照明灯 特に山側よりも海側の月のほうが

二重の至福をもたらす

海面を照らす月は、星よりも多くの光をうつすため夜間作業の海側では特に信仰に対する

思い入れが深い。

それを隠岐の島にいる人たちは昔から備えてるはず。

それは作物に対しても海産物に対しても同時に出せる

そして月は静寂と休息 エネルギーの転換と充電 生命の育み これを指す。 




スミノエとワタツミ 海神

2015-05-14 17:50:09 | 神仏

海神の住吉はヤマトです↓

スミノエ=住吉三神(すみよしさんじん)とは、神道で信仰される神である。

底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神、また和歌の神とされる。

住吉は「すみよし」は、元は「すみのえ」と読んだ[1]。住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(スミ)と「吉」(エ)の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり[要出典]、澄江、清江とも書いた。

住吉三神と神功皇后[編集]
日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍をおおいに苦しめたとされる


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E4%B8%89%E7%A5%9E


海神(わたつみ、わだつみ、うながみ、かいじん)は、海を司る神。また、海に住んでいるという神。世界各地の神話においても比較的高位の神とされている場合が多い。


ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神のこと、転じて海・海原そのものを指す場合もある。

「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%9F




シナツヒコ 風神

2015-05-14 17:43:17 | 神仏


風神(ふうじん)、風の神(かぜのかみ)、風伯(ふうはく)は、風を司る神。風の精霊、或いは妖怪をそう呼ぶこともある。また対になる存在として、雷神がある。


平安時代の歌学書『袋草子』、鎌倉時代の説話集『十訓抄』には、災害や病気をもたらす悪神としての風神を鎮めるための祭事があったことが述べられている[1]。奈良県の龍田大社では7月4日に風神祭りが行われている。



シナツヒコは、日本神話に登場する神である。『古事記』では志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記され、神社の祭神としては志那都彦神などとも書かれる。

神名の「シナ」は「息が長い」という意味である。古代人は、風は神の息から起きると考えていた。風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。

伊勢神宮には内宮の別宮に風日祈宮(かざひのみのみや)、外宮の別宮に風宮があり、どちらも級長津彦命と級長戸辺命を祀っている。風日祈宮は元々「風神社」と呼ばれていたが、元寇の際に神風を吹かせたのは風神社の神であるとされたことから、「風日祈宮」の宮号が宣下された。
風の神であることから、航海安全の神ともされる。また、「風」と同音・同根である「風邪」を治す神ともされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%84%E3%83%92%E3%82%B3


元寇は海神と風神の合わせワザです。

去年の元寇はあたしがやりました。また書いておきます。





タケミカヅチ 雷神と剣神

2015-05-14 17:36:27 | 神仏

タケミカヅチ(タケミカヅチオ)は、日本神話に登場する神。雷神、かつ剣の神とされる[2]。後述するように相撲の元祖ともされる神である。

『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある[2]。別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)[3]。

また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる[4]。鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。



神武東征[編集]

さらに後世の神武東征においては、建御雷の剣が、熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。熊野で熊が出現したため(『古事記』[11])あるいは毒気(『日本書紀』[12])によって、神武も全軍も気を失うか、力が萎えきってしまったが、高倉下(たかくらじ)が献上した剣を持ち寄ると天皇は目をさまし、ふるうまでもなく自ずと熊野の悪神たちをことごとく切り伏せることができた。神武が事情をたずねると、高倉下の夢枕に神々があらわれ、アマテラスやタカミムスビ(高木神)が、かつて葦原中国の平定の経験あるタケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよと命じるいきおいだったが、建御雷は、かつて使用した自分の剣をさずければ事は成ると言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじこみ、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)ほか佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれている[11](石上神宮のご神体である)。


さらにはヤマト王権の東国進出の際、鹿島が重要な拠点となったが、東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であることは#葦原中国平定で既に述べた。こうしたことで、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。u>

雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。


これがヤマトの歴史です。

なんでうちにこういうものがあるのか 地元の人は知らんだろう

2015-05-14 16:20:36 | 日記


だから絶対にうちの家系のものなど受け取りもしない

都合が悪いから

相馬藩はすごいんだぁ~と観光アピールしてきたから

まして相馬氏の家系は北朝と神道にべったりだから

だからここらの歴史資料館にはうちにまつわるものなど一切ない

かえってうちらが出入りするとしたら毛嫌いしている

会津藩の連中が県知事やったぐらいだもの 会津が北朝擁立なんだから いつまでも

会津藩のねつ造歴史もようやく知られてきたことだし・・・

その上でねつ造歴史と学歴で調子よく立ち回り インチキ皇室を擁立したきた人達は正統皇族が南朝だと言われて

毎日ヒステリー起こしてるんだろうなぁ~と思うけど。

会津藩と相馬藩は似たような事をしてきてますから

観光産業と藩士売名と金集め



他県民から「福島は被害者ぶってる」って連呼されるのも、そーいや会津藩は被害者産業だったなと結びつくし

ここらはフクイチの家系で被害者産業になってるし

全国レベルで言えば軽蔑に値しますよね



あたしはその被害者産業にムカっとして、被害者ぶってる人たち チョイスしてきましたけど。




それがこの何十年か後 手のひらを返したように調子よく立ち回るんだろうな・・・

正統南朝はどこにいんのや??

それが議論されなかったのは、ソイツらが無視して自分らのことだけ考えてたから


あたしはすんごく根に持つタイプで記憶力もいいので、もちろん忘れはしない