結果 日本の自己満足のように感じられている。
これでは日本の金も無駄になったのと同じ。
相手のほうも、なんでもかんでもしてもらってるという立場は、自尊心を壊し支配されてる感覚にだって陥るだろうし、こういう救済は良くない。
日本の支配欲の誇示だったように思われているんだろう。そしてこういう事を取り決めしてる機関はいったい何なんだ??今の皇室が会津藩系列と創価学会とキリスト教に繋がりすぎてるし、そもそも大正天皇だって昭和天皇だって朝鮮人だし。
はっきり言ってあっちで存在すべきで、日本にいて手出しするっていうのは筋違いだと思うんだよね。本当は朝鮮半島人なのに、朝鮮半島にいないで、自分らの祖国だからと言ってインフラ整備に手をかけていくあたり、償いの気持ちがあったのかもしれないが、それでは日本人の金はその人たちに流用されたってことになる。そういう事の認識を持ってるくせに、逃げる。逃げる金も日本人の金。在日の存在自体が日本人の金を食いすぎてるし、皇室そのものが日本人のためにないっていうのが現実だから。
日本人のためにある機関じゃないから、キリスト大学に子供を入学させたり、伊勢や出雲に行ってるんだよ。何やってくれてんだ ほんとに。怒り心頭なんだけど。この人たちがいたせいで、在日の逃げ場所が出来てたんだよ。そもそも日本人に対する気持ちがまったく違うんだから、大学出ましたとかそんなの関係ないんだよね そもそも。肩書きだけだから それ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
韓国併合(かんこくへいごう、英: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国[1]を併合、日本の一地方とした事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦[要出典]とも表記される。この後、日本による統治は、1945年(昭和20年)9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いた。
併合まで[編集]
ハーグ密使事件以降の大日本帝国国内では、「朝鮮を自国領土に組み込み朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化である」という見地により、反対の意見も根強かった。併合時に必要となる莫大な資金の負担についても政財界より併合反対の意見があった。[要出典]
反対に、軍部出身者を中心とした中国への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、「我が国上下輿論沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛んなり」という記事にされるなど、国論は併合賛成・反対に二分されていたが、1909年7月6日の閣議で併合方針は明確となった(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 )。朝鮮統監であった伊藤博文の暗殺で、親日派と早期併合に向かった。[要出典]
伊藤博文については、現在も日韓双方で解釈が異なっている。
日本での解釈[編集]
伊藤博文は、国際協調重視派の軍部としばしば激しく対立した[10]。また、韓国併合については、保護国化による一時的(実質)な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていたとされる[要出典]が、1909年7月6日の併合方針の閣議決定を否定した形跡は無い。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている[11]。 統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与で抗日独立派から敵視される立場だった。死の間際には、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている[12]。
韓国での解釈[編集]
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近年の韓国では、伊藤博文を殺害した安重根をテロリストではなく、祖国の英雄として解釈している。そのため、伊藤が併合反対派であったことや、安重根がテロリストと呼ばれた当時の朝鮮や日本側の見識とは異なった認識がなされている。
韓国では、「伊藤博文は対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していたが、1909年(明治42年)4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤に「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した[13]。伊藤博文は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせた。伊藤暗殺時には、大日本帝国政府内において朝鮮併合に反対する政治勢力は存在しなかった。」としている。