アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

【広島】呉市の「大和ミュージアム」、来館者が1000万人を突破

2015-05-25 19:25:17 | 時事

【広島】呉市の「大和ミュージアム」、来館者が1000万人を突破 小村市長「10年での1000万人到達は、地方の博物館では奇跡的な数字」 [転載禁止]©2ch.net

1 :かばほ~るφ ★:2015/05/25(月) 17:33:18.89 ID:???*

「大和ミュージアム」1千万人で市長「奇跡的」
2015年05月25日 11時12分

広島県呉市の大和ミュージアム(市海事歴史科学館)の来館者が24日、1000万人を突破した。 2005年にオープンし、4月に開館10周年を迎えたばかりでの達成は、地方の博物館としては異例のハイペース。同館は「今後も展示の内容を工夫し、足を運んでもらえる施設に」と意気込む。

大和ミュージアムは旧海軍の戦艦「大和」を10分の1大に再現した全長26・3メートルの模型を中心に、乗組員の遺書や引き揚げられた遺品、特攻兵器などの資料を展示。来館者は毎年90万人前後あり、県外や海外からが7割を占めている。
平和学習の場として、修学旅行生の人気を集めていることも伸びを後押し。今年は戦後70年とあって近代史への関心が高まっており、ゴールデンウィーク中の来館者は昨年より3割増え、夏頃と予想した1000万人到達が早まった。
1000万人目は愛知県春日井市の高校2年生女子(16)。記念式典で小村和年・呉市長らとくす玉を割り、節目を祝った。小村市長は「10年での1000万人到達は、地方の博物館では奇跡的な数字。 これからも未来に平和のメッセージを発信していきたい」とあいさつ。
高校生は「光栄です。戦争の歴史も詳しく学べて勉強になった」と話した。

戸高一成館長は「近代史を扱う博物館は少なく、『大和』のネームバリューだけが成功の要因ではない」と分析。 「市民や自治体が、我が町の博物館として熱心に協力してくれている。地元の支えのおかげ」と感慨深げに語った。


YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150525-OYT1T50027.html
来館者1000万人を達成した大和ミュージアム(呉市宝町で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150525/20150525-OYT1I50009-L.jpg

呉市(くれし)は、広島県の市。広島県の南西部に位置し、瀬戸内海に面した気候穏和で自然に恵まれた臨海都市である。

地形的に天然の良港と言われ、古くは村上水軍の一派が根城にしており、明治時代以降は、帝国海軍・海上自衛隊の拠点となっている。

海軍・海上自衛隊とのかかわり[編集]
明治時代には第二海軍区鎮守府(呉鎮守府、通称「呉鎮」)が開庁された。戦前は呉海軍工廠において「戦艦大和」などが建造され、東洋一の軍港・日本一の工廠として知られていた。呉海軍工廠は造船技術の卓越は言うまでもなく、早くから出雲安来の和鋼に着目し、特殊鋼として応用するなどの先端的な軍需鉄鋼研究の拠点でもあった。このため、太平洋戦争末期には呉軍港空襲において米軍の空襲を受け、大きな損害を受けている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E5%B8%82


村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1]で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。

彼らの多くは真言宗徒であり、信濃町などに子孫が多いとされる。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は航行船の広宣流布・祈伏を通じた平和構築である。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている[2]。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。

越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。

また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。

因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。
その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D

あー村上水軍って大和民族な 村上天皇系の。。南朝だ それ。


山王宮の由来

2015-05-25 15:37:15 | 日記


相馬行胤の家系とインチキ皇室の関係に滅茶苦茶にされた あと県庁関係もさんざん逃げ回って知らんぷりしてきた

この祟り 何百年と続くから忘れるなよ















比叡山はまた焼き討ちレベルなので返せと言ってきたらすごい事が起きるだろう。

その土地はうちの先祖と縁がある

2015-05-25 15:00:33 | 日記


https://www.city.koriyama.fukushima.jp/453000/gaiyo/densho.html

逢瀬川 - 蝦夷・陸奥・歌枕
www.t-aterui.jp/fukushima/f-ousegawa.htm - キャッシュ
郡山市西部の逢瀬町の額取山の麓にある多田野本神社本殿 御霊大明神とあり陸奥 では抜群の人気を誇る源氏の八幡太郎義家の家臣鎌倉権五郎景正を祭神とする比較 的珍しい神社である ここの宮司さんも安藤姓で郡山では極めて由緒ある姓である 尚且 つ ...


郡山市立多田野小学校
www2.schoolweb.ne.jp/weblog/index.php?id=0710001... - キャッシュ
あ・い・う・え・お を忘れずに、夢に向かって全力で取り組む多田野っ子でいてください( 校長先生)。友達の良いところ .... 地元の多田野本神社宮司の安藤道啓氏と笛や太鼓 の先生である伊藤恒雄氏を講師に招き行いました。 多田野の「鍬柄舞 ...



多田野村(ただのむら)は福島県安積郡にかつて存在した村である。村域の変遷[編集]
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、多田野村が単独で村制施行し安積郡 多田野村が発足。
1955年(昭和30年)4月23日 - 多田野村は河内村と合併し逢瀬村が発足。多田野村は消滅。


逢瀬町多田野地区に見る水道用水〜多田野水道(郡山市)
www.crerea.com/?p=2472 - キャッシュ
2014年7月9日 - 郡山市制施行70周年記念 市民が選ぶ「水とふれあう名所 ... 年)に郡山町の有志により 設立された水道会社により、多田野村(現大瀬町)の清水池の湧水を水源とした多田野 水道が1889年(明治22年)に着工され翌1890年(明治23年)5月に ...


逢瀬町多田野地区に見る水道用水〜多田野水道(郡山市)
www.crerea.com/?cat=.. - キャッシュ
2015年3月10日 - 水源に恵まれなかった郡山において、飲料水の確保は大きな問題でありました。1887 年(明治20年)に郡山町の有志により設立された水道会社により、多田野村(現大瀬町) の清水池の湧水を水源とした多田野水道が1889年(明治22年)に ...







源満仲

2015-05-25 14:35:13 | 日記








これがうちの系譜で間違いない



2015-05-19
17:27:31

多田 経実(ただ つねざね、生没年不詳)は鎌倉時代初期の武士。大和多田氏の祖。摂津源氏の嫡流であった多田氏の一族で、源満仲(多田満仲)の8代孫にあたる高頼の子とされる(『尊卑分脈』等の系図では経実の名は確認出来ない)が、大和国広瀬郡中村氏の一族ともいわれ系譜ははっきりしない。

多田氏は元暦2年(1185年)に累代の所領であった多田荘を失っており、一族であった経実は建保年間(1213年 - 1218年)に本貫の摂津より大和国宇陀郡多田(奈良県宇陀市室生区多田)の地に移り住んで土着したとされる。以降、経実の子孫は大和国東山内地方の有力国人として中世を通して存続した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E7%B5%8C%E5%AE%9F


清和源氏 > 摂津源氏 > 多田源氏

多田源氏(ただげんじ)は、清和源氏において源満仲(多田満仲)に始まる多田の地を本拠とした系統を指した呼称。


平氏政権下となると、行綱が鹿ケ谷の陰謀に加わりその謀議を密告したことで知られるが、この陰謀で行綱が藤原成親によって反平家の大将に据えられたのも多田荘の武力を背景とした行綱の力量を見込んでのことであった。その後の治承・寿永の乱では、行綱が摂津武士を率いて源氏方の一翼として活躍したが、東国武士の棟梁となり清和源氏の嫡流を自認した源頼朝によって多田荘を奪われると多田源氏は没落した。
その後の多田荘は、多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配がなされ、多田源氏直系の子孫は多田氏や能勢氏などとなったとされるが、その詳しい動向は明確でなくなっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E6%BA%90%E6%B0%8F

源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。
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生涯[編集]
当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王[2]と清和天皇の皇孫源蕃基[3]がそれぞれ主犯と共犯であったという[4]。
左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる[5]。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出た[6]が、満仲のみ病による辞退を許された[7]。
安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。
藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという[8]。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない[9]。
二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した[10]。
また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」[11]とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。
翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。
長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2


家紋 大和系 比叡山 顕家の側近 鷹飼い 村上天皇 この系列だな たぶん

昔は 多田姓名乗ってたとか 父親が言ってたから。あと南から来てるって言ってたから。

あと、将門の子供が入京したって話が出てとあるが

将門の母親は小高出身らしいから、うちと関係もある

前にも書いたことあるが、将門の母親は南朝側から出てると思うってあたしの推測は

将門が北朝サイドから殺されてるからで、当時の天皇たちは北朝だろと書いてる。

相馬常胤の系譜だって常胤以前の分はないんだろうし、将門の子供の養子だから 常胤は。

将門が死んでから何代後だよ 常胤は。

常胤の親が入京してたと推測できるかって話。将門の子供が入京したって事

常胤は養子だから、常胤の親ではないな。



うちの系譜は妬まれて燃やされた あるいは持ち逃げされた あるいは消去した





江戸時代以前のものがないのはその時代に色々起きてたってこと



そして天台宗は大っ嫌いだ あとインチキ皇室と名言してた熊沢天皇系列と昔は行き来が

あったものと推測してる。あと頼朝の系列も嫌いだな。

鎌倉にある八幡宮 あそこに阿弥陀如来ある あれになんか イライラを感じる。



高野山にはなんか残ってるんじゃないのか・・・。


つーか見てみろ 箱根だ↓

源満仲
墓所
和歌山県高野町高野山奥の院
神奈川県箱根町元箱根石仏群ほか

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2


やっぱり これか 自然界があたしに教えてくれるって書いてるのはこういう事。