これは今日の月だけど、明日は凄いレアな月見の日なんだよ。
本当に凄い。明日は天保14年以来の171年ぶりの「後の十三夜」という名月なのだよ。
明日は秋の夜長に月を眺めてはいかがw pic.twitter.com/OUuhqCizyj
なんだか凄いらしいけど、どうレアなんだろう?!どうせ残業なので、帰る道すがら月見にはなりそうだけど。 RT
明日5日は 171年ぶりの名月 tenki.jp/forecaster/dia… 旧暦では今年は9月に「うるう月」が入る為、明日5日は「うるう9月13日」。十三夜の月が2回見られるのは171年ぶり。台風20号に邪魔されずに楽しめる所が多そう。...
明日5日は 171年ぶりの名月 @tenkijp tenki.jp/forecaster/dia… という記事で思い出したけど、河内祥輔「村上天皇の死から藤原道長「望月の歌」まで」(『史学雑誌』117-11、2009年)は実に衝撃的な論文でしたな。道長の望月の歌の新解釈(続く)
(承前)まず歌の解釈であるが、素直に読めば、「この世をば わが世とぞ思ふ」が修飾しているのは「望月」である。つまり逐語的に解すと、満月が「この世をば わが世とぞ思」っているのであり、道長がリア充宣言しているわけではない。「わが世を謳歌する満月は自らが欠けることはないと思っている」
(承前)となる。そして、ここから先が特に重要なのだが、河内氏は、道長がこの歌を詠んだ夜は、満月が浮かぶ「十五夜」ではなく、「十六夜」である、ということに注意を促している。すなわち夜空に浮かんでいる月は満月ではなく、既に「欠けている」のである。(続)
(承前)したがって望月の歌を訳すと、「この世をわが世と思っている満月は、自らが欠けることはないと思っている(しかし現実には欠け始めている)」となり、世の無常を詠っていることが分かる。道長の真意は「満月と同様、私の栄華は一瞬のものにすぎず、絶頂を極めた後は衰えていかざるを得ない」
興味深い説だけど、それだとこの歌をオフレコ扱いにした理由が分からないなぁ。御堂関白記なんか見てると道長の性格はそれほど細かくなさげだし、めでたい宴の場で戯れに詠んだ歌が無常感に溢れてるとか、状況的に疑問を感じるんだけど。 RT