こんにちは。
昨夜は平日でしたが、食事会のお誘いがあり、行って来ました。
久しぶりに写真の先輩が神戸に帰って来られたので、会いに行って来ました。
数年振りです。
この先輩は、淡路や須磨、そして先日までは東京の病院に勤務され、今年から神戸医大に帰って来られました。
この先輩、豪快な笑顔をしながら、豪快な笑い声で、豪快な診察?をされるお医者さんです。
まっ、診察は豪快ではありませんよね…冗談です。
そんな先生と、久しぶりにお話し出来ました。
物凄いエネルギッシュな先生でして、沢山僕を指導してくれました。
昨夜帰宅した僕は、かなりエネルギーを充電されたのか興奮してしまい、ナカナカ寝付けませんでした…
そんな先生の勤務されている神戸医大ですが、お話しをしてるうちに、思い出した思い出があります。
数十年前、僕のお父さんが入院してた病院なんです。
いつも、神戸電鉄の湊川駅?から徒歩で神戸医大まで見舞いに行ってました。
幼少の頃の記憶ですが、覚えています。
湊川駅から歩いて、最後の角を曲がると、広い通りに出ます。
で、左手には今で言うコンビニがありました。そこらから神戸医大が見えます。
そこで、父さんが好きなサンドイッチとコーヒーを買って行ってました。
お店を出ると、9階の左から二番目に父さんの病室の窓が見えます。
いつもそこから付き添ってる母さんが手を振ってくれました。
そんな日常が週末の日課でした。
昔の神戸医大は、木造で如何にも大学病院みたいで、如何にも大学教授らしい教授がデーンと座り、父さんを診察してくれてました。
記憶にある印象的な言葉は
『中村さん、新しい薬が出ましたので、飲んでみて下さい』
父さんは、独り言のように、『ワシは薬の実験やな…』
と洩らしてました。
確かに、医学の進歩の真っ只中に居たんだなぁと、今同じ病名で居られる患者さんを見ると思います。
昔は治せなかった病も、今は比較的治癒率が高くなってる病もありますから…
そんな昔の病院のきしむ階段やら、暗い病室や、教授との会話も、何となく怖いイメージがありましたが、年々綺麗に改装されていきました。
今は更に改装されてるのかな。
そんなある年のクリスマス、珍しく病室で僕は父さんと2人っきりになりました。
父さんは『彰宏、どんぶりでも食べるか?病院の前にうどん屋さんがあるから買って来てくれるか?』
と、何となく初めての男同士の会話をした気になりました。
確か親子丼を食べましましたが、これが最後の男同士の食事でした。
翌年、病院から近い、湊川神社に初詣に行きました。
クジで鉛筆が当たりました。
そんな時、不思議な予感がしました。
『来年、父さんはここに居ないかもしれない』と。
その数日後のある土曜日、母さんから電話がありました。
『彰宏、明日はいつもより早い時間の電車に乗って、病院においでな。』
何の疑いも無く、いつもより早い電車に乗りました。
日曜日の空いた電車の雰囲気は、独りぼっちで不安気な僕の寂しさを、より大きくさせました。
そして湊川駅に着き、いつものコンビニみたいなお店で父さんの好きな、サンドイッチとコーヒーを買いました。
いつもの日常と違う感じがしたのは、そのお店を出た瞬間でした。
母さんが、いつもの9階の病室から手を振ってませんでした。
不安になった僕は、急ぎ足で病室に向かいました。
そこには、意識が朦朧とした父さんと、涙を我慢した母さんが居ました。
六人部屋の他の患者さんは、小さな僕を元気付ける様に話し掛けてくれました。
それから病室は、慌ただしく、目まぐるしく動き回りました。
意識が朦朧とした父さんは、僕の手をギュッと握り締めました。
その後、一時間もしないうちに意識が無くなりました。
最期に言葉を発したのは
『おはようさん』
でした。
その後個室に移り、最期を看取りましたが、主治医の先生からは、今後の医学発展の為、解剖をさせて欲しいとお願いされました。
承諾しましたが、数時間の解剖の後、頭の先から包帯でグルグルになっていました。
そして、主治医の先生は
『お父さんの内臓や細胞は、この大学病院にずっと保管され、研究されます。ここにはお父さんが居るからね』
と言ってくれました。
その後僕は、父さんの病気の遺伝の可能性を調べるため、約一ヶ月入院し、骨を削る手術もし、全て検査しました。
お陰様で大丈夫でした。
あれから数十年が経ちました…
未だに神戸医大の近くに行くと、父さんの細胞はまだあそこにあるのかな?と思い出します。
小さい時は、将来、父さんの細胞からサイボーグになって、また父さんと会えるかな?とダジャレを思い付きましたが、細胞は、サイボーグの語源?なんかな…?
さてさて…
そんな故人を想う一日でした。
昨夜は平日でしたが、食事会のお誘いがあり、行って来ました。
久しぶりに写真の先輩が神戸に帰って来られたので、会いに行って来ました。
数年振りです。
この先輩は、淡路や須磨、そして先日までは東京の病院に勤務され、今年から神戸医大に帰って来られました。
この先輩、豪快な笑顔をしながら、豪快な笑い声で、豪快な診察?をされるお医者さんです。
まっ、診察は豪快ではありませんよね…冗談です。
そんな先生と、久しぶりにお話し出来ました。
物凄いエネルギッシュな先生でして、沢山僕を指導してくれました。
昨夜帰宅した僕は、かなりエネルギーを充電されたのか興奮してしまい、ナカナカ寝付けませんでした…
そんな先生の勤務されている神戸医大ですが、お話しをしてるうちに、思い出した思い出があります。
数十年前、僕のお父さんが入院してた病院なんです。
いつも、神戸電鉄の湊川駅?から徒歩で神戸医大まで見舞いに行ってました。
幼少の頃の記憶ですが、覚えています。
湊川駅から歩いて、最後の角を曲がると、広い通りに出ます。
で、左手には今で言うコンビニがありました。そこらから神戸医大が見えます。
そこで、父さんが好きなサンドイッチとコーヒーを買って行ってました。
お店を出ると、9階の左から二番目に父さんの病室の窓が見えます。
いつもそこから付き添ってる母さんが手を振ってくれました。
そんな日常が週末の日課でした。
昔の神戸医大は、木造で如何にも大学病院みたいで、如何にも大学教授らしい教授がデーンと座り、父さんを診察してくれてました。
記憶にある印象的な言葉は
『中村さん、新しい薬が出ましたので、飲んでみて下さい』
父さんは、独り言のように、『ワシは薬の実験やな…』
と洩らしてました。
確かに、医学の進歩の真っ只中に居たんだなぁと、今同じ病名で居られる患者さんを見ると思います。
昔は治せなかった病も、今は比較的治癒率が高くなってる病もありますから…
そんな昔の病院のきしむ階段やら、暗い病室や、教授との会話も、何となく怖いイメージがありましたが、年々綺麗に改装されていきました。
今は更に改装されてるのかな。
そんなある年のクリスマス、珍しく病室で僕は父さんと2人っきりになりました。
父さんは『彰宏、どんぶりでも食べるか?病院の前にうどん屋さんがあるから買って来てくれるか?』
と、何となく初めての男同士の会話をした気になりました。
確か親子丼を食べましましたが、これが最後の男同士の食事でした。
翌年、病院から近い、湊川神社に初詣に行きました。
クジで鉛筆が当たりました。
そんな時、不思議な予感がしました。
『来年、父さんはここに居ないかもしれない』と。
その数日後のある土曜日、母さんから電話がありました。
『彰宏、明日はいつもより早い時間の電車に乗って、病院においでな。』
何の疑いも無く、いつもより早い電車に乗りました。
日曜日の空いた電車の雰囲気は、独りぼっちで不安気な僕の寂しさを、より大きくさせました。
そして湊川駅に着き、いつものコンビニみたいなお店で父さんの好きな、サンドイッチとコーヒーを買いました。
いつもの日常と違う感じがしたのは、そのお店を出た瞬間でした。
母さんが、いつもの9階の病室から手を振ってませんでした。
不安になった僕は、急ぎ足で病室に向かいました。
そこには、意識が朦朧とした父さんと、涙を我慢した母さんが居ました。
六人部屋の他の患者さんは、小さな僕を元気付ける様に話し掛けてくれました。
それから病室は、慌ただしく、目まぐるしく動き回りました。
意識が朦朧とした父さんは、僕の手をギュッと握り締めました。
その後、一時間もしないうちに意識が無くなりました。
最期に言葉を発したのは
『おはようさん』
でした。
その後個室に移り、最期を看取りましたが、主治医の先生からは、今後の医学発展の為、解剖をさせて欲しいとお願いされました。
承諾しましたが、数時間の解剖の後、頭の先から包帯でグルグルになっていました。
そして、主治医の先生は
『お父さんの内臓や細胞は、この大学病院にずっと保管され、研究されます。ここにはお父さんが居るからね』
と言ってくれました。
その後僕は、父さんの病気の遺伝の可能性を調べるため、約一ヶ月入院し、骨を削る手術もし、全て検査しました。
お陰様で大丈夫でした。
あれから数十年が経ちました…
未だに神戸医大の近くに行くと、父さんの細胞はまだあそこにあるのかな?と思い出します。
小さい時は、将来、父さんの細胞からサイボーグになって、また父さんと会えるかな?とダジャレを思い付きましたが、細胞は、サイボーグの語源?なんかな…?
さてさて…
そんな故人を想う一日でした。