姫路市 なかむら整骨院~日本初・医学的根拠ある整体~

内海聡医師、薬害研究センター認定セラピスト。日本初、医学誌に掲載された整体。

急遽出席しました!

2009-01-04 | Weblog
こんばんは。

今日は、行き当たりばったりな1日でした。

朝は、一歳になる息子が起床したら一緒に起床し、息子のご飯が終わってから、お出掛けしました。

行き当たりばったりでしたが用事を済まし、昼過ぎに姫路に帰って来ました。

時間は14時丁度でした…
『これから姫路駅に行けば、15時間から水泳部のOB会に間に合いそう!』
と妻に言い残し、僕だけ姫路駅から電車に飛び乗り、西明石に向かいました。

少し遅刻しましたが、急遽、参加出来ました。

僕は、幼稚園からスイミングに通い、中学生時代は水泳部に入部してました。
別に水泳がしたかった訳ではなく、ラグビーをしたかったのですが、ラグビー部はありませんでした。
ラグビーをするためのカラダ作りに水泳を選びました。

ずっと水泳はしてましたが、中学二年生の三学期に明石の中学に引っ越してきました。

どんな中学かを全く知らずに、とりあえず水泳部に入部しました。

が、水泳部に入部した当時、左手を骨折し、ギプスをしてました。

実は、その前年の暮れに、前の中学でお別れ会をしてくれたのですが、場所は何故かスケート場でした。

言うまでもなく、

『お別れ会でスケートをし、転倒、負傷。
腫脹、熱感、叩打痛、著名。
フォーク状変形を呈す…完璧に骨折。』

そんな左手でしたが、園内に病院は無く、中学生だった僕は骨が折れたのも、何も訳が分からず、みんなに

『左手がおかしい!』

と言いましたが、

『ほんまやな…大丈夫?次はテニスするで!』

と言われ、

『わかった!』

と言いながら、お別れ会の主人公が去る訳に行かず、最後は卓球までこなし、

痛い涙、
別れの涙、
痛い涙のお別れ会は終えました。

家に帰り、パンパンに腫れた左手を親に見せ、すぐに病院に行きました。
が、あいにく年末の休みに入ったばかりで、ほとんどの病院は閉まってました。

行き着いたのは、救急病院。

『コーレス骨折』ってやつでしたが、今でも記憶にある、担当してくれた医師の言葉…

『骨折は私の担当ではありませんので、とりあえず板を当てます。』

で、本当にかまぼこの板みたいなのを当てて頂き、包帯でグルグルしてくれました。

ギプスはあったでしょうが、かまぼこ板みたいな板でした…

その夜、かなりの激痛だったのを覚えてます。
で、新しく入った中学は、ギプス姿でした。

転入の挨拶をした後、他のクラスの子が数人教室を覗きに来てました…これは、僕が男前だったからではなく、当時流行った

『ビーバップハイスクール』

と言う漫画にあったそうですが、腕にギプスをし、中に鉄パイプを入れ、引っ越してきた
『きくなが』
という登場人物のヤンキーが教室で暴れるシーンがあったから、「きくなが」の真似してる転入生がいるとの噂だったと、後に知りました。

で、引っ越してきた中学にもラグビー部は無く、そのまま水泳部に入りました…
が!ここが全国大会常連校と知ったのは、入部後でした…
ですから、練習は本当にスゴかった…1月に入部しましたが、陸上トレーニングがありました。走ったり、筋トレしたり…3日で弱音をはき、
ギプス姿のギプスを言い訳に、入部後一週間で幽霊部員と言われたくらいに、クラブを休みました。

みんな、本当に何でもめちゃめちゃ速い。

ちなみに、プールは外にあるのですが、2月末には農業用のビニールハウスを張り、風だけを防ぎ、真冬の水の中をすでに泳いでました。

本当に温水じゃないんです、真水です。

まさに、
『アンビリーバヴォ!』
女子もブルブル震えながら、本当に唇が真紫になりながら泳ぎました。

しかし、一コースから七コースまであるプールは、速い選手から区切られており、僕は女子も含めた一番遅い七コースに居ました。

ちなみに、女子の一番遅い子より僕の方が遅かったんです。

いつもクロールをしてるのですが、僕は周回遅れ。
いつも、一番遅いはずの女子が僕に一周差をつけ、僕に追い付き、僕の足の裏に彼女の手が当たるんです。
僕は立ち止まり、彼女を先に行かせます。

当時は、心底情けなかった。

女子に負ける事じゃなく、いつも
『僕はみんなの邪魔をしている』
と言って自分を責めてました。

そんな毎日を過ごしましたが、プールで泳ぎだしてからの練習は1日も休みませんでした。

遅くとも、追い越されても、休まず七コースに居続けました。

速くなりたい感情は無く、日々練習をこなす事だけを考えてました。

今でも忘れない、4月のある日、加古川の平荘湖の畔にあるプールで記録会がありました。

監督は、『中村、出場しても仕方無いやろ…50mだけ泳ぐ?』
と言って頂きました。
水泳の公式戦は100m以上しかなく、50mは本当にとりあえず出場させて頂く立場でした。

ところが…毎日地道に練習をこなした成果は出ました。
結構速いタイムが出たのです。
あの日から、監督は僕のコースの飛び込み台の上に居座り、ビート板で頭をど突きにど突きまくりながら、物凄く鍛えてくれました。

4月末の出来事でした…その時の監督が写真の方です。

かなり長いブログになりましたから、次のページに続きます。
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水泳部のお話しの続きです。

2009-01-04 | Weblog
前回のお話しの続きです…

次に試合があったのは、ゴールデンウイークでした。益々練習はキツくなり、毎日10キロ前後は泳いでました。
いつも、クロールの息継ぎしながら、水中に顔が入ると
『監督のあほ!』
と言いながら泳いでました。
しかしここで、ようやく100mの公式戦に出場させて頂けました。

ここから、夏までの3ヶ月で、驚異的に記録が伸びました。
確か、100mクロールで13秒は伸びました。

僕は、七コースから三コースまで飛び石のように行き、記録も速くなれました。

夏になる頃、リレーメンバーの4人に入れました。
今でも自慢話になりますが、我ながら、本当に感動する出来事でした。
そこからは、目標は全国大会になりました。

兵庫県のランキングでは、リレーメンバーの4人が今のタイムを出せば全国大会出場は可能でした。

何も実感なく、とりあえず目の前の出来る事だけで精一杯でした。

そんな気持ちでしたが、大会がある度に表彰状は沢山頂けました。
監督も『中村、もう表彰状に名前書かなくてよいか?面倒くさいねん』
と言うくらいに沢山取りました。

そんなこんなで、県大会に出場しました。

リレーでは、予選でも標準タイムを出せば全国大会に出場出来ます。

僕達のエースが
『よし、予選でタイムを出そう。飛ばしていこな』
と言い、監督からはマムシドリンクを飲まされましたが…

返って緊張したのか、いつもより、コンマ数秒遅いタイムでした。
決勝には進めたものの、全国には届かずでした。

そして、全国挑戦最後のチャンスの決勝。

ポートピアのプールに、兵庫県のみんなが集まります。

会場は一杯の人。

その中、決勝が始まります。

プールサイドを整列して入場をします。

みんな、カラダを冷やさない為にジャージを着て入場します。

しかし…

引っ越して来た僕は、そのジャージが無かった…

僕だけ一人、海パン一丁での入場でした。

客席から
『あいつ裸や!』
と言われながら…

芸人の小島よしおに負けず劣らずでした。

そして決勝が始まりましたが、頼みの僕達のエースはタイムが出ず、僕もいつも通りのタイムしか出ず、コンマ数秒で全国大会出場を逃しました。

とても悔しくなり、その時初めて
『あんなに遅かった僕の目の前に全国大会出場のチャンスがあったのか…』
と実感しました。

しかし、監督と出会った、たった数ヶ月の間に、監督は、僕に沢山の『力』を与えて下さいました。

今の僕もまだまだ未熟ではありますが、監督無くして、今は無い。

本当に心から尊敬し、感謝している監督です。
今日、二十数年振りにお会いしました。

引っ越してきた僕は、監督の指導を数ヶ月しか受けてませんから、忘れてるだろな…と思いながら、西明石に向かいました。

会場に着いた僕は、ドアを開けるのを戸惑いましたが、ドアを開けた瞬間

『よぉ!なかむら!久し振りやな!お前はゴッツい馬力があったな!』

と、いきなり覚えててくれました。

目頭が熱くなりました。
監督は今、教育委員会の仕事もされてるみたいで、
『子供への体罰は、絶対いけません!』

と訴えてらっしゃるそうな…
ところが、二十数年前の監督の御指導は…
ビンタ、ど突く、靴で殴るの体罰オンパレードでした…。

が、監督の一発、一発には沢山の愛情がありました。
今では、感謝以外ありません。

変わらず、お元気な姿を見れた今日、鮮明に中学生時代を思い出しました。
ついつい長いブログになってしまいました。

ちなみに、写真は二十数年前のコワイ、コワイ時代の監督です。

最後に監督の口癖…

『記録は永遠ではない
記録を求める魂だけが永遠である』

『今、キミ達も苦難や悩みがあるだろう。
負けても良い、しかし、殴られても立ち上がれ。私は、負けても、乱打戦になっても何度も立ち上がるぞ。』

と、優しい眼差しの奥には、まだまだ生徒を思いやる熱い心は健在でした。

ありがとうございました。
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