こんばんは。
今日は、行き当たりばったりな1日でした。
朝は、一歳になる息子が起床したら一緒に起床し、息子のご飯が終わってから、お出掛けしました。
行き当たりばったりでしたが用事を済まし、昼過ぎに姫路に帰って来ました。
時間は14時丁度でした…
『これから姫路駅に行けば、15時間から水泳部のOB会に間に合いそう!』
と妻に言い残し、僕だけ姫路駅から電車に飛び乗り、西明石に向かいました。
少し遅刻しましたが、急遽、参加出来ました。
僕は、幼稚園からスイミングに通い、中学生時代は水泳部に入部してました。
別に水泳がしたかった訳ではなく、ラグビーをしたかったのですが、ラグビー部はありませんでした。
ラグビーをするためのカラダ作りに水泳を選びました。
ずっと水泳はしてましたが、中学二年生の三学期に明石の中学に引っ越してきました。
どんな中学かを全く知らずに、とりあえず水泳部に入部しました。
が、水泳部に入部した当時、左手を骨折し、ギプスをしてました。
実は、その前年の暮れに、前の中学でお別れ会をしてくれたのですが、場所は何故かスケート場でした。
言うまでもなく、
『お別れ会でスケートをし、転倒、負傷。
腫脹、熱感、叩打痛、著名。
フォーク状変形を呈す…完璧に骨折。』
そんな左手でしたが、園内に病院は無く、中学生だった僕は骨が折れたのも、何も訳が分からず、みんなに
『左手がおかしい!』
と言いましたが、
『ほんまやな…大丈夫?次はテニスするで!』
と言われ、
『わかった!』
と言いながら、お別れ会の主人公が去る訳に行かず、最後は卓球までこなし、
痛い涙、
別れの涙、
痛い涙のお別れ会は終えました。
家に帰り、パンパンに腫れた左手を親に見せ、すぐに病院に行きました。
が、あいにく年末の休みに入ったばかりで、ほとんどの病院は閉まってました。
行き着いたのは、救急病院。
『コーレス骨折』ってやつでしたが、今でも記憶にある、担当してくれた医師の言葉…
『骨折は私の担当ではありませんので、とりあえず板を当てます。』
で、本当にかまぼこの板みたいなのを当てて頂き、包帯でグルグルしてくれました。
ギプスはあったでしょうが、かまぼこ板みたいな板でした…
その夜、かなりの激痛だったのを覚えてます。
で、新しく入った中学は、ギプス姿でした。
転入の挨拶をした後、他のクラスの子が数人教室を覗きに来てました…これは、僕が男前だったからではなく、当時流行った
『ビーバップハイスクール』
と言う漫画にあったそうですが、腕にギプスをし、中に鉄パイプを入れ、引っ越してきた
『きくなが』
という登場人物のヤンキーが教室で暴れるシーンがあったから、「きくなが」の真似してる転入生がいるとの噂だったと、後に知りました。
で、引っ越してきた中学にもラグビー部は無く、そのまま水泳部に入りました…
が!ここが全国大会常連校と知ったのは、入部後でした…
ですから、練習は本当にスゴかった…1月に入部しましたが、陸上トレーニングがありました。走ったり、筋トレしたり…3日で弱音をはき、
ギプス姿のギプスを言い訳に、入部後一週間で幽霊部員と言われたくらいに、クラブを休みました。
みんな、本当に何でもめちゃめちゃ速い。
ちなみに、プールは外にあるのですが、2月末には農業用のビニールハウスを張り、風だけを防ぎ、真冬の水の中をすでに泳いでました。
本当に温水じゃないんです、真水です。
まさに、
『アンビリーバヴォ!』
女子もブルブル震えながら、本当に唇が真紫になりながら泳ぎました。
しかし、一コースから七コースまであるプールは、速い選手から区切られており、僕は女子も含めた一番遅い七コースに居ました。
ちなみに、女子の一番遅い子より僕の方が遅かったんです。
いつもクロールをしてるのですが、僕は周回遅れ。
いつも、一番遅いはずの女子が僕に一周差をつけ、僕に追い付き、僕の足の裏に彼女の手が当たるんです。
僕は立ち止まり、彼女を先に行かせます。
当時は、心底情けなかった。
女子に負ける事じゃなく、いつも
『僕はみんなの邪魔をしている』
と言って自分を責めてました。
そんな毎日を過ごしましたが、プールで泳ぎだしてからの練習は1日も休みませんでした。
遅くとも、追い越されても、休まず七コースに居続けました。
速くなりたい感情は無く、日々練習をこなす事だけを考えてました。
今でも忘れない、4月のある日、加古川の平荘湖の畔にあるプールで記録会がありました。
監督は、『中村、出場しても仕方無いやろ…50mだけ泳ぐ?』
と言って頂きました。
水泳の公式戦は100m以上しかなく、50mは本当にとりあえず出場させて頂く立場でした。
ところが…毎日地道に練習をこなした成果は出ました。
結構速いタイムが出たのです。
あの日から、監督は僕のコースの飛び込み台の上に居座り、ビート板で頭をど突きにど突きまくりながら、物凄く鍛えてくれました。
4月末の出来事でした…その時の監督が写真の方です。
かなり長いブログになりましたから、次のページに続きます。
今日は、行き当たりばったりな1日でした。
朝は、一歳になる息子が起床したら一緒に起床し、息子のご飯が終わってから、お出掛けしました。
行き当たりばったりでしたが用事を済まし、昼過ぎに姫路に帰って来ました。
時間は14時丁度でした…
『これから姫路駅に行けば、15時間から水泳部のOB会に間に合いそう!』
と妻に言い残し、僕だけ姫路駅から電車に飛び乗り、西明石に向かいました。
少し遅刻しましたが、急遽、参加出来ました。
僕は、幼稚園からスイミングに通い、中学生時代は水泳部に入部してました。
別に水泳がしたかった訳ではなく、ラグビーをしたかったのですが、ラグビー部はありませんでした。
ラグビーをするためのカラダ作りに水泳を選びました。
ずっと水泳はしてましたが、中学二年生の三学期に明石の中学に引っ越してきました。
どんな中学かを全く知らずに、とりあえず水泳部に入部しました。
が、水泳部に入部した当時、左手を骨折し、ギプスをしてました。
実は、その前年の暮れに、前の中学でお別れ会をしてくれたのですが、場所は何故かスケート場でした。
言うまでもなく、
『お別れ会でスケートをし、転倒、負傷。
腫脹、熱感、叩打痛、著名。
フォーク状変形を呈す…完璧に骨折。』
そんな左手でしたが、園内に病院は無く、中学生だった僕は骨が折れたのも、何も訳が分からず、みんなに
『左手がおかしい!』
と言いましたが、
『ほんまやな…大丈夫?次はテニスするで!』
と言われ、
『わかった!』
と言いながら、お別れ会の主人公が去る訳に行かず、最後は卓球までこなし、
痛い涙、
別れの涙、
痛い涙のお別れ会は終えました。
家に帰り、パンパンに腫れた左手を親に見せ、すぐに病院に行きました。
が、あいにく年末の休みに入ったばかりで、ほとんどの病院は閉まってました。
行き着いたのは、救急病院。
『コーレス骨折』ってやつでしたが、今でも記憶にある、担当してくれた医師の言葉…
『骨折は私の担当ではありませんので、とりあえず板を当てます。』
で、本当にかまぼこの板みたいなのを当てて頂き、包帯でグルグルしてくれました。
ギプスはあったでしょうが、かまぼこ板みたいな板でした…
その夜、かなりの激痛だったのを覚えてます。
で、新しく入った中学は、ギプス姿でした。
転入の挨拶をした後、他のクラスの子が数人教室を覗きに来てました…これは、僕が男前だったからではなく、当時流行った
『ビーバップハイスクール』
と言う漫画にあったそうですが、腕にギプスをし、中に鉄パイプを入れ、引っ越してきた
『きくなが』
という登場人物のヤンキーが教室で暴れるシーンがあったから、「きくなが」の真似してる転入生がいるとの噂だったと、後に知りました。
で、引っ越してきた中学にもラグビー部は無く、そのまま水泳部に入りました…
が!ここが全国大会常連校と知ったのは、入部後でした…
ですから、練習は本当にスゴかった…1月に入部しましたが、陸上トレーニングがありました。走ったり、筋トレしたり…3日で弱音をはき、
ギプス姿のギプスを言い訳に、入部後一週間で幽霊部員と言われたくらいに、クラブを休みました。
みんな、本当に何でもめちゃめちゃ速い。
ちなみに、プールは外にあるのですが、2月末には農業用のビニールハウスを張り、風だけを防ぎ、真冬の水の中をすでに泳いでました。
本当に温水じゃないんです、真水です。
まさに、
『アンビリーバヴォ!』
女子もブルブル震えながら、本当に唇が真紫になりながら泳ぎました。
しかし、一コースから七コースまであるプールは、速い選手から区切られており、僕は女子も含めた一番遅い七コースに居ました。
ちなみに、女子の一番遅い子より僕の方が遅かったんです。
いつもクロールをしてるのですが、僕は周回遅れ。
いつも、一番遅いはずの女子が僕に一周差をつけ、僕に追い付き、僕の足の裏に彼女の手が当たるんです。
僕は立ち止まり、彼女を先に行かせます。
当時は、心底情けなかった。
女子に負ける事じゃなく、いつも
『僕はみんなの邪魔をしている』
と言って自分を責めてました。
そんな毎日を過ごしましたが、プールで泳ぎだしてからの練習は1日も休みませんでした。
遅くとも、追い越されても、休まず七コースに居続けました。
速くなりたい感情は無く、日々練習をこなす事だけを考えてました。
今でも忘れない、4月のある日、加古川の平荘湖の畔にあるプールで記録会がありました。
監督は、『中村、出場しても仕方無いやろ…50mだけ泳ぐ?』
と言って頂きました。
水泳の公式戦は100m以上しかなく、50mは本当にとりあえず出場させて頂く立場でした。
ところが…毎日地道に練習をこなした成果は出ました。
結構速いタイムが出たのです。
あの日から、監督は僕のコースの飛び込み台の上に居座り、ビート板で頭をど突きにど突きまくりながら、物凄く鍛えてくれました。
4月末の出来事でした…その時の監督が写真の方です。
かなり長いブログになりましたから、次のページに続きます。