思いつくまま、気の向くままの連載記事。
第2回は『東京・神奈川編』です。
≪選抜出場校の思い出 2≫
関東代表 桐蔭学園(神奈川) 6度目(16年ぶり)
夏6度出場 甲子園通算 16勝10敗 優勝1回
今年久しぶりの甲子園返り咲きとなった桐蔭学園。最近は「桐蔭」といえば完全に大阪桐蔭のことを指し、神奈川の「本家」を自任する桐蔭学園の影は薄くなるばかりでした。名物理事長が全国に冠たる学校を作り上げようとして、横浜の地に誕生したこの桐蔭学園。1964年の開校、66年の野球部創部からさほど時を置かず、すべてが栄光に満ちた時を過ごしてきました。野球部は71年に創部5年目で初出場を果たし、勢いに乗って勝ちあがってまさかの全国制覇を成し遂げます。ワタシもほのかに記憶にあるこの年の快進撃。桐蔭は下手投げの大塚と主将で後に長く監督を務める土屋のバッテリーでがっちりと守備を固めての栄冠でした。この年の甲子園。話題は福島の磐城高校一色。「小さな大投手」と言われた田村を軸に、無失点でどんどん勝ち進む磐城は、「炭鉱の閉鎖」という悲しい話題を乗り越えて「東北初の大旗」に突き進んでいるという”日本人の琴線に触れまくる”快進撃としてまさに「全国民の期待を一身に背負った」という感じでした。例えていうならば昨夏の吉田投手を擁した金足農の快進撃と被るのですが、当時の盛り上がりは昨夏以上だったかもしれません。高校野球の注目度自体が段違いの時代でしたからね。桐蔭は完全にヒールの役割を演じましたが、終盤に1点を取ってスパッと逃げ切るという神奈川らしい戦い方でした。その時の指揮を執っていた若き奇本監督、その後はチーム作りに苦しみます。というよりも、ライバルたちの力のつけ方が半端じゃありませんでした。時代が昭和50年代~60年代に向かうと、まず神奈川に「王国」を作ったのは原貢監督の東海大相模。東海大相模は高校球界に革命を起こすようなド迫力の打線を軸に神奈川球界を席巻。桐蔭学院も水上やら長内やらいい選手が出てきましたが、勝負をさせてはもらえませんでした。そして50年代前半からは渡辺監督の横浜が台頭、超高校級選手を拝した都会的でスマートな野球で全国制覇を成し遂げました。そして名門Y校も古谷監督に率いられて復活。厳しい戦いを続けた桐蔭は、ついに奇本監督に代え、初優勝時の主将である土屋監督を就任させて野球部の復活を期しました。そしてこの策がズバリと当たり、桐蔭は80年代中盤~90年代にかけて「桐蔭王国」を築くことになります。82年秋の関東大会で優勝を飾った桐蔭は、翌83年の春の選抜に初出場。あの71年夏の「初出場初優勝」から既に12年の歳月が流れていました。この年のチームは決して大型チームではなかったものの、3人の左投手のリレーで勝ち上がっての甲子園。そのうちの一人に、「桐蔭学園最高の投手」と言われる志村投手がいました。志村は左腕からキレのいい変化球と速球を駆使し、そしてコントロールがいい好投手でした。そしてそれ以上に注目されたのはその牽制球のうまさ。まさに絶妙と言えるほどで、刺殺したことは数えこともできないほどでしたし、何より1塁ランナーは投球時に必ずベース方向に帰塁せざるを得ず、そのため相手にエンドランなどの攻撃のバリエーションを発揮させることがないというのがチームにとっては大きかったですね。そしてその志村が卒業した後に輝いたのは88年の選抜。長身のエース渡辺がマウンドをがっちりと死守して、打線もこのころから「強力打線」と言われるようになってきました。選抜では4強に進出。その準決勝で宇和島東との延長16回の激闘は、選抜史に残る戦いでした。ワタシはずっと「負けるはずない」と思ってみていました。いまだに「何で負けたかわからないなあ」と思っている試合で、おまけにいうと「あの試合に勝っていれば、全国制覇できた可能性も高かったなあ」と残念に思ったりしています。しかし桐蔭としての黄金の時代は、ここから数年でしょうね。91年~93年、そう、「天才」高橋由伸を擁した3年間は、桐蔭学園が最も輝いていた時期でした。91年は主将/主砲に高木大成(元西武)が君臨し、高橋もスタメンに名を連ねるいいチームでした。翌92年のチームは、高橋、副島らの「猛爆打線」で神奈川の夏を席巻。このころの桐蔭の出るハマスタでの試合は、まあ何というか「打撃戦がお約束」という感じで、右に左に、縦横無尽に球が飛んでいくというイメージですね。この年のチームでは全国制覇に近いところまで行くはずという評価でしたが、前年に続いて投手陣が踏ん張ることができずに接戦を落としての悔しい敗退でしたね。しかもこの年は開幕戦で負けてしまったので、何とも言えない炭酸の抜けたコーラを飲んでいるみたいな、そんな感覚で大会を見ていた感じがします。「天才」高橋は3年になった翌年も大いに期待されていましたが、この年のチームは過去2年と比べて相対的に力を落としていて、残念ながら高橋の力をもってしても甲子園に導くことはできませんでした。しかしこの3年間で「桐蔭強し」といういい伝統を神奈川県内に残して、桐蔭はその後も「神奈川のトップチーム」という地位をゆるぎないものにしていましたね。95年選抜、97年選手権はいずれも「優勝候補の一角」という評価での甲子園出場でしたが、いずれも悔しい試合内容での早期敗退。特に97年のチームはかなり期待が高かったので、残念でした。そしてこのあたりから、桐蔭は徐々にその力を落としていきます。そして代わってライバルであった横浜が松坂以降「負けないチーム」になっていき、名門の東海大相模の復活、新興勢力の桐光学園や慶応などの台頭もあって、桐蔭学園は段々と甲子園への道が遠のいていきました。今年は16年ぶりに甲子園に戻ってきますが、まだまだ神奈川の中で「トップ」に位置するチームではありません。80~90年代のあの輝きを取り戻すには、まだまだやることは山積み。果たして今年、復活への第一歩を記すことができるのか、注目しています。勢いに乗って関東大会を制したとはいえ、神奈川でのライバル横浜との対戦では全く歯が立たず、明治神宮大会でも全国レベルとの間に大きな差があることを見せつけられています。力的には、毎回出てくるたびに優勝候補と言われた時代とは比べるべくもないと思っています。そんな中で、今年のチームが「復活へのいい流れ」を作れるのかどうか、「桐蔭のこれからの10年、20年」に向けて、大切な大会となります。
関東代表 横浜(神奈川) 16度目(5年ぶり)
夏18度出場 甲子園通算 58勝28敗 優勝5回 準優勝1回
横浜高校といえば、関東における「高校野球の代名詞」的な存在の学校。渡辺元監督とともに、長く高校野球ファンを楽しませてくれる特別な存在の学校です。かつて横浜高校について書いたことあったかなあ・・・・・とひも解いていたら、渡辺監督が退任するときに一つ書いていました。
その時のブログ ⇒
https://blog.goo.ne.jp/angeldad/e/64a2b414b0402dccaac0a3a9aee9b377
近年関東の中でその力を見せることができないでいた神奈川県のチームが、昨夏、昨春に続いて3季連続で2校を甲子園に送り込むことができるのは、「神奈川高校野球フリーク」であるワタシにとっては、とてもうれしいことではあります。しかしどのチームも「内弁慶」的な戦いが多く、群馬・栃木・埼玉を中心として近年目覚ましい躍進を遂げている北関東勢の甲子園でのあの各校の戦いぶりと比較して、インパクトが弱いと感じてしまっているのもまた事実です。特に横浜高校は、「松坂の98年」から始まる「負けない横浜の10年間」と比較すると、甲子園での戦いぶりにどうしても不満が残ってしまう近年ではあります。特に神奈川県大会でのあの鬼神のような強さを目にしている身としては、甲子園でのともすれば「ふがいない」と感じてしまうような勝負弱さなどは、どうにか払しょくしてもらいたいと思っているところです。今年もチームも、ドラ1が確実視されるエース及川に、全国的に名前のとどろく中軸の内海・渡会など、素材的には「全国屈指」といって良い布陣をそろえています。しかし本番では、その彼らが力を出すことができるのかどうかは、まったくわかりません。県内の直接対決では圧勝しているライバル・東海大相模と比較しても、甲子園での戦いぶりを見ると横浜は「後塵を拝している」と言わざるを得ません。さて、もう平田監督になって数年が経ちます。いよいよ「平田野球」が花開くときが来るのか、それとも。。。。。。
東京代表 国士舘(東京) 9度目(10年ぶり)
夏1度出場 甲子園通算 10勝9敗
国士舘と言って思い出すのはやはり『春の国士』という事。春の選抜には過去9度出場しているのに、なんと夏の選手権は1度しか出場できず。普通に考えると必ず2校出場できる夏の大会の方が出場しやすいのではないかと思いますが、国士舘の場合は左にあらず。国士舘野球を育て、導いてきたのは現監督の永田監督。92年の選抜初出場時から、今回まで10度の甲子園で9度は永田監督が導いたもの。まさに国士野球の中興の祖と言える人物です。国士舘は80年代から東京の高校野球においては「中堅クラス」という位置にずっと鎮座していましたが、91年の秋の東京大会に優勝、勢いに乗って明治神宮大会も制し(かつての明治神宮大会は、各地区の優勝校が出場しなかったため、地元でもある東京の代表校【秋季大会優勝校】が優勝するのがお約束の大会でした。)、春夏を通じて初めての甲子園登場でした。ワタシも「えっ国士舘が甲子園出るの?いったいどんなチーム?」という感じでしたが、その頃の東京の高校野球、岩倉、関東一、東亜学園など「耳慣れない学校」が甲子園をつかみ取って、勢いに乗って上位まで駆け上がるというのも多かったので、結構この”新顔”である国士舘にも、注目して期待した覚えがあります。そしてこの国士舘の”甲子園デビュー”はセンセーショナルなもの。大会前の寸評では「強打のチーム」という触れ込みだったものの、実は強力打線はあまり機能しなかった代わりにエースの菊池投手が大ブレーク。好投、好投、また好投の大活躍で3試合でわずか1失点。準決勝ではその大会で話題を独占していた松商学園の上田投手としびれるような投手戦を展開。敗れはしたものの、国士舘は甲子園に確かな足跡を残していきました。この菊池投手も上田投手も、実に「センバツらしい」好投手。彼らのような投球が、「センバツは好投手がいるチームを選ぶ」なんていう高野連の一つの基準を形成する要因になったんですね。国士舘は2年後の93年に2度目の出場。この時も粘り強さを見せて4強に進出、96年にも8強に進出とすっかり「90年代の春の顔」となる実績を残しましたね。最初の3大会で8勝を挙げるというのは、並大抵のことではありません。しかし東京の高校野球を見ている人間ならばわかるように、「なぜ春にあれだけ強い国士が、夏を迎える前に段々フェードアウトするように力を落としていくのだろうか?」という疑問がわくような夏の戦いぶりで夏の甲子園には届かない年を重ねました。その後も97,98,00,03年と、2年と置かずに選抜に出続けている国士舘でしたが、夏の切符はつかめず。そしてその野球も、最初の頃のノビノビと攻撃する野球から、何かこじんまりと「負けない野球」みたいなものを追求するようになっていったという印象があります。そして当初甲子園デビューを飾った時のようなセンセーショナルさが消えて、「いやらしさは身に着けたものの、こじんまりとしている」というチームカラーになっていったのと同時に、夏の予選では「どこかで勢いに乗ったチームに粉砕されてしまう」という戦いが続きました。05年に、その厚い壁を破って歓喜の「夏初出場」をつかんだものの、何かこじんまりとした野球の印象は消えませんでした。東京のチームは、良くも悪くも「ノリのチーム」というチームが多くて、それがプラスの方向に針がぶれたとき、ものすごい力を発揮するというところが特徴のようにも感じているのですが(関東人の特徴かもしれないですね)、国士舘のチームからはそういうにおいは、感じることがなくなっていました。05年に「悲願」を達成したことで翌年からは監督も若い箕野監督に代わりましたが、結果を出すことができず10年後に再度永田監督の就任となりました。今年のチームも、東京のチームとしては実に手堅い野球をするチームで、選手のポテンシャルが、例えば横浜や東海大菅生、日大三などの選手に比べて高いわけではありません。しかし甲子園の「春の戦い方」を熟知したベテラン監督の下、どんな戦いをしてくれるのか、楽しみではあります。春の選抜では勝っても負けても、いや、特に負けた試合は激戦が多く「激闘王」と言ってもいいかもしれない国士舘。さあ、久々の聖地で、どう戦う? 東京のファンとしては、かつて東東京予選で「帝京キラー」として鳴らした国士の、帝京戦で見せたようなパフォーマンスを期待しています。あの強かった帝京に対して一歩も引かず、けたぐりを狙って技をかけ続けるような戦いぶり、しびれましたからねえ。特に実力が上回る相手に対してのしぶとさ、見せてほしいと思っています。
(つづく)