還暦を超えた今では、もちろん公道でむやみにスピードを出したりしない私。
車と運転は大好きで、しかも若いころはスピードにも憧れていたのですが、学生時代は愛車がボロの初代カローラだったため…
飛ばそうにも飛ばすことなどできず。
社会人になってからは、ちゃんと大人だったので、しかも稼ぎが相当にあったので…
JAFのA級ライセンスを取って、仲間と一緒に「KP61スターレット」という車両を改造したもので、筑波サーキットでスポーツ走行をしたり…
筑波などで行われるKP61のワンメークレースに参加したりしていました。
当時の仲間の中には、プロのレーシングドライバー兼モータースポーツ記者になった者もいて、後にポルシェカップなどで活躍しました。
私は街乗りではプジョーの205GTIという、いわゆる「ホットハッチ」と呼ばれた小型のスポーティーな車を愛車にしていました。
走りも軽快でしたけれど、公道ではお洒落さを重視したかったのもありました。
その後、仕事を辞めたいという気持ちと共に、オープンホイールのフォーミュラカーを操ってみたい、できればプロに…
などという分不相応な夢もあって、海外のレーシングスクールに入って訓練し、フォーミュラフォードのライセンスも取ったのですが…
プロとして身を立てるには才能が足りないことがわかったので、レースからは一切身を引きました。
ただこの時の経験が後に役に立って、モータースポーツ記者として国内外のレースやマシンを取材したり…
チームの密着取材やドライバーのインタビューをしたり、フェラーリの歴史を深掘り取材してノンフィクションの連載をしたり…
という仕事をすることができました。
愛車のプジョー205GTIはいい車だったのですが故障が多くて、しかもパワステなしの「重ステ」でクラッチも重くて…
しかも3ドアハッチバックで、狭くて後席は乗り降りしにくかったのです。
1993年に結婚したのを機に、ちょっとファミリーカーに寄せようという気持ちもあり、また妻がアルファロメオ好きだったので…
アルファロメオ155の2.0ツインスパーク(初期型)を買って、乗り換えました。
まさか、それから30年近くも乗り続けることになるとは、当時は夢にも思っていませんでしたが。
その間ずっと、公道では安全運転を心がけていました。
後に子どもが生まれて、その子が「メメ」と名付けることになるその愛車も、本気の走りには向かないFF車(前輪駆動車)で…
最高出力も140馬力程度とたいしたことはない、イタリアではファミリーセダンの車だったので。
ただ一度だけ…1994年の夏、日にちは忘れましたがたぶん7月の平日に、メメで公道をぶっ飛ばしたことがありました。
そのときは、雑誌の「合併号休み」を使って妻と軽井沢に1泊旅行をして、その帰り道でした。
行きは出来たばかりの上信越道を使って、裏から軽井沢入りしたのですが…
帰りは気まぐれで、ちょっと運転を楽しみたい気分になって。
どうせなら国道18号=碓氷峠の旧道を下って横川まで出て「おぎのや」で名物の「峠の釜めし」でも食べようと。
ところが真昼間だったのにも関わらず、気が付いたら後ろに、いかにも峠道の「走り屋」という感じの白い改造車が付いて…
(若い男が二人で乗ってましたけれど、車種はよく憶えてません)
我々を煽り始めたのです。手で先に行けと合図したり、左ウインカーを出して減速したりしたのですが…
それでも追い越さず、接触しそうなほどぴったりと後ろにくっついて、煽り続けて来ました。
だいたい公道の「走り屋」なんてものは、モテない男が多いと当時から決まっていて。
(そりゃ足回りガチガチで乗り心地最悪の車で、しかも飛ばされたら女性はいやに決まってます)
こちらが男女のカップルだったので、ひがみも入って「いじめてやろう」という気になったのでしょう。
それで、しまいに私も「スイッチが入った」状態になっちゃって。若気の至り。
「じゃあ、いっちょやったろかい。曲がりなりにもプロの道に入りかけた者と、ど素人の差を見せてやるわ」
ということで、生涯ただ一度の「公道バトル」を受けて立ってしまいました。
もちろん、対向車が予測できないブラインドのコーナーでは、対向車線にはみ出したりしないままで。
後ろの「走り屋」は、そんな煽り運転をするぐらいの兄ちゃんですから、案の定、腕はさっぱりで…
正直言って「直線番長」と言ってもいい相手でした。
ストレートでスピード出すのは、右足が付いていれば誰でもできますからね。
モータージャーナリストのレジェンド的な存在で、自身もレーサーであったポール・フレールの名言に…
「ストレートは良い車のために。コーナーは良いドライバーのために(存在する)」
という言葉があります。
その走り屋兄ちゃん、184ある碓氷峠のコーナーの、最初のうちは、ブラインドコーナーなのに対向車線にはみ出したりして…
かなり危ないドライビングで必死に付いてきましたけれど…
三分の一も下りないうちに、ミラーから消えてしまいました。途中からは戦意喪失して、追うのもやめた様子。
下に降りて「おぎのや」さんの向かいのスペースに停めていたら、追い越していきましたけれど…
みたところ「どノーマル」で、FFの非力なセダンに完敗したのが、カッコ悪くて悔しかったのでしょう。
こちらは顔を向けてガン見してやってのに、目も合わせず通り過ぎて行きました。
もっとも、F1に日本人として初めてフル参戦した、あの中嶋悟さんは…
「素人が相手の峠道なら、向こうがスポーツカーでこっちが普通の軽自動車でも勝てる」
と言っていましたけれど。
さすがにブレーキは後半、少しフェード気味になったし、タイヤや車に負担をかけて、終わってから良くなかったなと。
それ以上に、隣に乗っていた妻が激怒してしまって。めちゃめちゃ怒られました。
自分が事故を起こさなくても、相手が無理をして事故ったら半分はこっちのせいなんだよ、と。
たしかに。おっしゃる通り。
それから今に至るまで、まる30年。二度と他車と「バトる」なんていう、バカなことはしていません。
もう六十過ぎてますから、本気になってもあのころみたいなドライビングは出来ないでしょうし。
それに、今の愛車であるペッピーノさんは「コーナリングマシン」ではありますけれど…
飛ばさなくても十分「曲がる気持ち良さ」を味わえる車なので。
ところで碓氷峠の旧道は、有名な「走り屋マンガ」で、その後アニメや実車映画にもなった…
『頭文字(イニシャル)D』の聖地として有名になりました。
(ここと、同じ群馬県内の榛名山(作中では秋名山)が主な聖地みたいです)
横川の「おぎのや」さんには、イニシャルD関連の商品がたくさん並んでいたりします。
マンガの連載は1995年に始まったので、私が「碓氷峠バトル」をした時点では、まだ存在していませんでしたけれど。
その「聖地」で今年の6月に、全日本ラリー選手権(JRC)の第5戦、「モントレー2024」が開催されました。
国道をクローズしてJRCのSS=スペシャルステージが設定され、競技が行われるのはこれが初めてだったとか。
そのときの「オンボード映像」がYouTubeに上がっていたので、貼っておきます。
このマシンがSSで何位だったのかは分かりませんが、このラリー全体では総合3位と、表彰台をゲットした車です。
(優勝は新井大輝/松尾俊介組のシュコダ・ファビアR5)
マシンはトヨタGRヤリス・ラリー2。ドライバーは田口勝彦。コ・ドライバーは北川紗衣。
女性がコ・ドライバーというのは珍しいと思われるかもしれませんが、実はそうでもなくて。
この北側紗衣さんは、JRCで優勝経験のある、日本では一流のコ・ドライバーです。
ちなみに、ラリーでのコ・ドライバーの役割は非常に重要で、自身がコースを試走して独自に作った、コースノートに従って…
ドライバーにコースの状況を刻々と伝えるため、ドライバーは運転操作に集中できるのです。
過去にWRC(世界ラリー選手権)で…
コ・ドライバーがコースノートを読み上げるのを間違えたせいで、マシンが崖下に転落してしまう事故もありました。
WRCでもJRCでも、コ・ドライバーにポイントが与えられて表彰が行われ、年間チャンピオンシップもあります。
では、映像をどうぞ。
https://www.youtube.com/@rallyteamaicello6815