暑さと共に、父の体力がさらに目立って衰えて来ました。
とうとう、歩くこともままならなくなって来た様子。
うちの車に乗り込むのにも困難が生じ始めました。
全く歩けなくなり、車にも乗れなくなったら、もう車いす生活しかありません。
ケアマネさんは、室内歩行器の使用も提案してくれたのですが…
その見た目が歩き始める前の赤ちゃんみたいで「みっともない」と見えたらしく、父は使用を拒否。
「そのぐらいなら車いすのほうが全然ましだ」と。
そうなると、いまの唯一の楽しみの外食が難しくなるし…
なにより家のトイレと洗面を使えなくなるので、今のマンションには住めない。
洗面は大きなお金をかけてリフォームすることも可能ですが、スペース的にトイレは車いす用に改造できない。
なので、そこまでになったら、施設に入ってもらうことになっているのです。
この夏を家で過ごすのが、やっとかな……と思います。
(もう既にシャワーが使えないので、入浴はデイサービスでの週二回になっています)
「いよいよとなるまで頑張る」と言っていましたが、どうやらその限界が近いようです。
体の衰えと共に、認知力の衰えも進んでいます。
車で医者へ連れて行って、一旦帰宅して数時間を過ごしてから外食に連れ出したら…
レストランで、腰が痛くて椅子に座っているのもつらいと。
なので「今日はあのまま家にいて、食べる物を買って来てあげればよかったね」と言ったら…
「帰ったら食べるのどうするか心配しないといけないじゃないか。めんどくさいから帰らなくてよかった」と。
いったん家に帰ってから出直して来た経緯を、すぐに忘れてしまって、医者から直接レストランに来たと思っていた様子。
否定はしませんでしたけれど。
外食をしても、自分でメニューを見て選ぶことがもう難しくなったようで…
というか、考えるのがしんどくなってしまったようです。
私と同じものをとなるか、以前に食べた物を「あれでいい」となるかのどちらかしかなくなってしまって。
そして、何を食べることにしたのかも、そばから忘れてしまいます。
今日どこへ行って来たのか、何をしたのかも、忘れることが多く。
認知障害から「認知症」へと、もう移行しているのかも。
認知症になると、銀行口座なども凍結されてしまうので、公には出来ません。
その対策で「家族信託」の手続きを進めていますが、それが終わるまではこの状況を隠す必要があります。
本当はもっと早くしておかないといけなかったのですが、何でも「いよいよとなったら考えればいい」と言って先延ばしにし…
タイミングを逃したり、ギリギリのところに追い詰められてしまうことばかりの人なので。
むかーし、飼っていた犬が病気になったときもそう。
私が「獣医さんにみせてあげて」と何度も泣いて頼んだ末、いよいよ死にそうになってから獣医さんに見せましたが…
手遅れで、その翌日に亡くなりました。
お墓もそんな感じで、もう見て回ることが出来ない今の状態になってから「もっと早く決めときゃよかった」と。
元気なうちにもいろいろ見て回ったのですが、迷った末、やっぱり「いよいよとなったらでいいや」で。
めんどくさいことはとりあえず考えないことにして、先送りして、いま楽しいことだけを考えて、する。
「仕事」以外は、ですが。
でもそういう考え方、生き方の人、いま我々の社会に、意外に多くないでしょうかね。
まずいことにはとりあえずふたをしたり、面倒ごとは考えないことにして、今この時の楽しいこと、都合のいい事だけを見るという。
そうするとすべてが手遅れになるんです。後戻りして、考え直す、やり直すことができないところに来る。
父は、典型的な日本人なのかな。
ただ「もしかしたら俺は死なないんじゃないか」「このままの人生がずっと続きそうな気がする」などと…
「まじめに言ってんの?」というような、トンデモなことを大まじめに言っていた父も…
さすがに、自分の生に「終わり」が近づいていることを悟り始めたようです。
今になって「墓、墓」と盛んに言い出したのは、その現れでしょう。
そして、話していると、過去の話を楽しそうにするのですが…
失敗してしまったこと、過ちをおかしたこと、不幸に見舞われたこと…
そういったものを、どんどん忘れて行っています。
初めて買ったマイホームが、1年足らずで地盤が傾き、家も傾いてひび割れが出来て…
危険なので、引き屋をして基礎工事をやり直したこと。
それでも長期的には傾いて、20年ほどでまた傾いて、ついに放棄して引っ越ししたこと。
敷地の半分が元水田で、半分が山を削った土地で、素性が悪い地盤だった上に、土木会社がずさんな基礎工事をしていたためです。
(その土木会社は市長への贈賄で後に逮捕されました)
それは忘れてしまった。
それから、母の嫉妬妄想で、家族だけでなく近隣の人々や業者、医師たちまで巻き込む大騒動になったこと。
これもきれいに忘れてしまいました。
それを収めるために、私が東奔西走して、さんざん苦労させられたことも。
住んでいたのはのどかな良い場所だった。
お母さんとはずっと仲の良い夫婦だった。
そういう物語を頭の中で作り上げて、良い人生を過ごせた、という気持ちになりたいようです。
それも、生涯の終幕を感じているからなのだと思うと、否定することができません。
ただただ作り笑顔でうなずく私。
それはなかなかに、つらいものですよ。
傾いた家があった土地では、クラス全員からの凄惨ないじめに遭って…
教師にはあからさまに隠蔽され、両親に相談しても「やられたらやり返せ」だけでほぼ無視され。
(いつも言いますが、ではクラス内で大暴れして、全員に「やり返す」のがよかったと?)
おかげで「多数派」を憎悪する心のクセができてしまったし。
結果、ジャイアンツとか、トヨタとか、そういう存在がぜんぶ嫌いです。笑っちゃいますが。
あの母に虐待され続けた(父には隠して)ことは、もっと私の人生に大きな影を落としていて。
自分の命の価値は5万円、というバカな考えが心の奥の奥にまだ残っているし。
時価5万円だとかの、借り物の竹の釣竿を折ってしまって…
「死になさい!今すぐ!ここで!」と母に言われて、しつこく沼に突き落とそうとされて、逃げまわった体験からです。
自慰行為発覚に際しての激しい体罰で、性に関する指向まで、一時期本来のものから逸脱するほどになってしまったし。
性に対する異常な嫌悪からでしょう。夫婦生活も、結婚してすぐに出来た私の後は、生涯なかったようです。
そんな母だから、不倫をして家庭を捨てる、という非行にだけは走りませんでした。
私の希死念慮は、その心理を自己分析すると、母に対する殺意の、自分自身への「投射」なのだと思います。
親殺しの罪を逃れるための、自分殺しへの願望。
それを幸い自覚できていることと、息子の存在のおかげで、まだ実行していないのだと思っています。
そんなこんなを抑えて「いい土地だった」「いいお母さんだった」という言葉に対して笑顔でうなずくのは、なかなかに……
これが他人の介護士さんとかだったら、本物の笑顔で、共感してあげられるのでしょうけれど。
真実を知っている身内は、ね。
かくも、家族介護というのは、いろいろと思わぬストレスを生むものです。
それでも、過去の悪いことは忘却し、あるいは心の中で物語をねつ造して、幸せな気持ちで最後を迎えたい。
いよいよ最期の時を予感したら、そうなるのは致し方ないのかな、とも思うのです。
個人的「歴史修正主義」みたいなもの。
年老いた父の「安らかな最期を迎えたい」という気持ちに、戸は立てられない。
ここでふと思うのですが…
歴史修正主義がはびこり、過去の悪いことを忘れ、良い方向に捻じ曲げた物語を信じたがる今の日本人、日本社会は…
もしかすると「終わりの時」を、無意識の中に予感しているのではないかと。
昭和のはじめから20年ごろまでの日本を正当化し、逆に懐かしがる人々は、私の父のように…
「心の終活」をはじめているのではないか。そんな、背筋の寒くなる考えが、頭をよぎるのです。