スピリチュアルアート・不思議話・猫話・神話を紹介します

癒しのスピリチュアルアート・不思議なお話・可笑しい猫話・チョッと面白い為に成るかもしれない自作の神話を記載します。

スピリチュアルなお話~☆~☆~御竈神さん・・・鯛めしを作る・・・

2012-05-09 21:36:26 | スピリチュアルな出来事

 スピリチュアルなお話~★~★~御竈神さん・・・鯛めしを作る。

■ 御竈神さん、鯛めしを作る。

日本には八萬百の神様がいらっしゃいます。その神々は、とても良く助けて下さいます有り難い神様達です。我が家の台所には、御竈神さんと御水神さんが、いらっしゃいます。

御竈神さまとは、読んで字の如く、かまどの神様の事です。今の時代はほとんど竈(かまど)は、有りませんから、この竈の神様もほとんど出番が有りません。昔は、おすいじんさん(御水神)おこうじんさん(御竈神)と言って、土間の竈や井戸の周辺には大抵の家が、この神様達(御札)を祭ったものです。

台所の様式が変わってからは、ほとんど祭る事が無くなってきた様ですが、家の水周りや火所は、人の生活にとって欠かせない大切な生業の場所です。

或る日の事、友達と一緒に何と無く導かれて行った神社が有り、そこで何と無く御竈神さんと御水神さんの御札を頂き(購入)、それぞれに貼ってお祭りをしました。

それから暫くしてからの事、お料理をしていると、誰かの声が聞こえ、お料理の指導が始まりました。お料理は、一応私も主婦ですから大抵の事は出来ますし、好きですから、それなりに工夫をしならが新作にチャレンジもしたりもします。

お料理の指導は、料理のコツ・・・と言ったところでしょうか。「あなたは、どなたですか。誰ですか?。」との問いかけに、「私は御竈神です。ここに居ます。」とお答えになりました。私は、びっくりしましたが、常日頃から、色々な神様との出会いが有りましたから、さほどの驚きでは、有りませんでしたが、その優しい声と上品な物言いに嬉しく成り、「済みませんが、お姿を見せては頂けませんか?。」と言うと、その姿を見せて頂く事と成りました。

普通の神様と違い、その容姿は茶色っぽい衣装で、たすき掛けをしていらっしゃいます。料理をするに当たり、袖の袂が邪魔にならない様にとの事です。衣装が茶色っぽいのは、竈の色(昔は土で作られていた)を現したものです。大抵、火を司る神は荒々しいものと相場が決まっていますが、この神様は、優しい料理教室の先生の様な物腰と物言いをなさいます。そして若くてハンサムな男の神様です。(付く人によって容姿は異なります。)

大抵のお料理は、把握し作っていると思って居たものの、知っている様で知らない本格的な美味しいお料理を作るコツは、知らないものです。そんなコツをはじめ、手順や使う調味料や分量まで、事細かく指導して下さいます。

タイ料理の調理法

或る日の事、親戚の叔父が、大きな鯛を数匹持ってきてくれました。お刺身やお吸い物を作り、魚の裁き方も教わり、刺身は、皮付きのままの方が美味しいと、その方法も教えてくれました。確かに、美味しかったです。

次に、鯛めしを作ろうとした時に、どうして良いかが、分からない?。焼いて炊飯器に入れるのか、それともそのまま(内臓は処理する)生のままに入れるのかが分からない・・。生のままだと、何だか臭そうな出来上がりに成りそうだ・・。如何したものか?。焼くには、鯛は大き過ぎ半生になりそうだ。

すると、御竈神さんは、「皮が黒く焦げない様に弱火で焼き、2部、3部焼くらい火が通り、後は生の部分が残って良いですから。それを炊飯器に入れると良いですよ。」と言われました。生臭さが無くなり、皮の焼いた香ばしい香りと、生だからこそ出てくる出汁も生かされる料理方法だとの事でした。

なるほど・・・。とても、美味しい鯛めしが出来上がりました。

醤油めしは、醤油を入れると仕上がりがどうしてもパサ付くので、物によって違うが、美味しい醤油めしを炊くには、もち米を少々5%~15%くらい一緒に炊くと冷えても美味しいパサ付かない物に仕上がるそうです。

ま~次から次へと、教わりました。感謝、感謝です。

それから、或るクリスマスの日、御札を一緒に頂いた時の友達とクリスマスを過ごそうと私は、お料理をお昼から準備をし、ケーキも作り頂く事と成りました。(ケーキは、御竈神さんに教わりました。)

友達は、あまりお料理を得意とせず、出来れば作りたく無い・・・。出来上がった物を買って済ます事も多く、「うちの亭主は、おとふさえ有ったら文句を言わない。毎日、おとふを肴に晩酌をしている・・。」と、言っていますが、私から観ると、何の文句も言わず、おとふを食べている様にしか思えてならず、それだけ出来た旦那さんに思えて成りません。

友達は良く私の家で、お料理を食べる機会が有り、その度に美味しいと言ってくれる事が、私はとても嬉しかったのです。

クリスマス料理を食べて、例の如く、「美味しかった・・・。」と、皆んなが言ってくれたので私は、とても嬉しく満足したのですが、友達が「私も御竈神さんの札は家で祭っているのに、我が家の御竈神さんは、ちっとも働ん・・。なんでやろ。」と、文句を言いました。

見(透視)てみると、彼女の家の御竈神さんは、肩肘を付き横に寝そべり、暇そうにしていました。その旨、友達に伝えると、皆、大笑いをしました。

どんなにご利益の有る神様でも御札でも、その人が賢明に働き、その働きに愛が備わっていなければ、神はその人に降り、力を貸しては下さいません。懸命に働く心根も己の為では無く、誰かの為に役に立ちたいとの思いが必要なのです。そして、無心に打ち込む努力が必要です。

あなたも、家族の為に美味しいお料理を作りたいと思うのでしたら、御竈神さんと御水神さんを向い入れ、労を惜しまず料理に励みますと、声無き声が心魂に届き、それは閃きとなって、或いは意外な所からの知識の知らせと成って、あなたを導き下さいます。まして、お料理を生業としたお店には、欠かせない神様達です。

匠・・・・と称される方々には、どの職の道で有ろうとも、神は降り、共に居て下さり力を貸して下さいます。そこに愛が有るからです。共存共栄・・・で、有ります。

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スピリチュアルな世界~☆~☆~アダムとイブ・・実は

2012-05-08 12:45:59 | 確実に幸せに成る為の学び舎

 確実に幸せに成る為の学び舎~★~アダムとイブの神話の意味

■アダムとイブの話の意味・・授業・・第2回

 その前に、確実に幸せに成る為に、どうしてアダムとイブの話なんだろうかと思うでしょうが、一見関係ない様に思う学びも全て、意味が有り必要性が有るからです。

 例えば、癒しと運気を求めパワースポットに行ったり、パワーの有るグッズを購入し良い運気を手にしようとする人が居ますが、自分自身の中に常に癒しを生み出し、運気をどんどん引き寄せものにする、悪い運気を追い払い幸せに成る為の器を、先ずは作り上げる事から始めるものです。幾ら、癒しや良い運気をものにしても、器が小さかったり笊(ざる)だったり脆い(壊れやすい)ものでは、何の意味も有りません。

 良い運気も悪い運気も、言い換えれば、幸福も不幸せも連鎖をします。それは、まるで磁石の様なもので、次々と引き寄せ大きくなります。当校の学びは良い運気・幸せのみを引き寄せ、悪い運気不幸・災いを突き放す、そんな磁石を心魂に育てる学びでも有ります。一歩づつ、その階段を登るものですから、楽では有りません。しかしながら登れば、辿り付きます。

癒しを生み出すパワースポットに、幸運を引き寄せる石、磁石に自分自身が成るのです。

 学びの回毎に、しっかりと学びを自分のものとし、確実で不動な幸せを掴みましょう。

では、はじめます。

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 アダムとイブのお話は、皆さんご存知かと思いますが、簡単にご説明をしますと、蛇がアダムとイブを唆し、二人は神より禁じられて居た決して食べてはならない赤い果実(禁断の果実)を食べてしまい、永遠の命を失エデンの園(楽園)から追い出された・・。と言う神話です。禁断の果実は、林檎ともイチジクとも言われています。

この神話の意味や解釈について、色々と説が有ります。今回は、私の想うところを、天より色々と教わった事を総合し考え、説を紐解いてみたいと思います

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その為には、人間のルーツ(起源)について説明をする必要が有ります。

神(創造主)は宇宙を造り、星々をそしてこの地球を造り、地球に生物を造りました。この地球上で我々(生物)は、互いに命を与え与えられ、食い(命の継続)繋ぐ輪廻の元、調和を保ちながら歴史を築いて来ました。

この輪廻と調和は時として異変を起こす事が有り、長い歴史の中では滅びてしまった生物達も居ます。例えば、恐竜の様な大型動物などです。

異変とは流星の衝突や火山の大爆発による自然災害によって起きるもので、氷河期などはそれに当たります。そう言った自然災害(環境の変化)は、生物の有り様にも変化を来しました。多くの種の生物は、環境の変化に伴い、ある種は滅び、或る生物は適用し変化をし、命の継続をして来ました。

神(創造主)とは宇宙を含め全ての創造そのものを神と表したもので、人間の知識を遥かに超越した存在で有ります。また、宇宙の在り様そのものを神(創造主)と人間は表現をしています。創造主は、宗教で有り、また化学でも有ります。科学を知る(追求する)者は、宗教に立ち返る・・・。と言われるもの納得が出来ます。

創造主は、俗に言う処の神を遥かに超えた位置に存在し、俗に言う処の神さえも神(創造主)の創造によるものと言えます。俗に言う所の神・・・とは、人が存在し必要とする神、或いは人が居るから存在する神と言ったものです

命を産み育てる(本能)は無償の愛の行為で成り立ち、命は愛の賜物とも言えます。この宇宙を生み出し、宇宙の命を育み継続するは、神(創造主)の愛の行為で有り、神(創造主)は、愛そのもので有ると言えるでしょう。

他種の命の犠牲によって育むまれる命も又、残酷に思えるけれども、これも無償の愛の行為か他なりません。この地球上では、互いが命を差さえ合い助け合って生き延びなければ成らず、そうやって命の歴史を築いて来たのです。

輪廻とは2つの意味が有り、一つは、生物の命を繋き合う他種との愛の輪の仕組みそのものを輪廻と言い、もう一つは、その繰り返しで起きる時間の経過も輪廻と言い現し、調和とは命を支えあう愛の輪のバランスを指すものです。

ここからは、アダムとイブの神話の真実に迫ります。

その輪廻と調和を壊してしまったのが、アダムとイブと言う事になります

アダムとイブは、人間達の男女を固有名詞化したものに他なりません。アダムとイブは、我々人間の事で、人間の先祖達を指します。

輪廻と調和は、神(創造主)から与えられた法則(約束事)で、地球上で生きるもの達全てが、輪廻と調和の基、永遠に命の継続をして行く事を意味します。それを人間が壊してしまった事を言っています。

神話で言う永遠の命とは、2つ意味が有ります。その一つは、地球(星)が終わりと成るまで、本来持って居る地球(星)の寿命を言いますが、人間が神から与えられた法則を破ったばかりに、地球の寿命前に滅びる事を意味します。また、もう一つは、後ほど説明します。

アダムとイブ(人間達)が、神から与えられた法則を破った理由が有ります。やんごとなき理由です。

輪廻と調和の法則には、それぞれに食べて良い(命を繋ぐ為の)物を決められています。

キリンは、高い位置の木の葉を、牛や馬は地面の草を(糞は木や草を育てる)、ライオンや豹は草食動物を、それぞれの生き物は、体格・胃袋に合った量を、命を繋ぐ必要量のみを腹が減ったら頂く・・・。猿類達は、木の実や果物を・・。全ての生物に与えられた法則です。

我々人間の祖先も、猿類同様の物(果物や木の実)を食し、地下の根っこ(芋類)や植物の種子を食べて居た様で、たまには蜂の巣や虫など(雑食)も食べて居た様です。元々は、猿の方が食の確保には長けて居た為に、木の上だけでは食糧が不足し地上でも確保していた様です。

以前に、天より聞いていた事ですがエデンの園とは2つの意味が有る様で、一つは、アフリカの大地を意味する事で有り、人間の起源はアフリカだと聞いていました。

その後、近年のテレビなどの情報で、人間のDNAは、唾液を調べると確かでは有りませんが、7種に分類が出来、そのルーツはアフリカで有ると知りました。教えの確信と成りました。

天の話では、アフリカは、その昔、かなり豊かな大地で、食する物が豊富に有ったそうです。しかし、雷が度々、落ちた為に、焼け野原と成り砂漠化が進んだと聞きました。最近、知った事ですが、世界で一番、アフリカで雷は発生すると知りました。

流星の落下や火山の大爆発などの影響も有ったでしょうが、雷が原因で有る事も確かです。また、砂漠化の後押しをしたのは、人間の仕業でも有ると聞いています。

豊かな台地アフリカだった頃は、食料確保の下手な人間(祖先)でも、それなりに生きて来れたのでしょうが、環境の変化で段々と、食料確保も難しく成り、さらに雑食も増えて来た様で、木の上ばかりか、地面での食糧確保の割合も増えた様です。

飢えて死に滅ぶか?それとも何が何でも生き伸びるか?大きな選択を余儀なくされる時期を迎えた時に、神が創った法則をついに人間は破ってしまったのです。それは、決して食べてはならない、禁断の果実である動物の肉を飢えに耐えかねて食べてしまった事です。一つの意味は、禁断の果実とは、血の滴る動物の肉を意味します

元々、木の上での食糧確保と地上での確保の両立状態だった人間は、飢えて死にしそうに成った際、最初は、焼け野原で焼け焦げ死んだ動物の肉に手を付け食べた事から始まった様です。

食べても死なない事が分かると・・。食べ続ける・・。そうすると体に異変が起きます。その異変は、先ず、頭に影響を及ぼします。生まれた子供は、奇形・突然変異・DNAの異変・・と言ったところでしょうか。

神の法則(定められた物を食す)・・・食すに当たり、それぞれに定められた食材が有りますが、近年で例を上げれば、狂牛病は、植物しか食べてはならない牛に、成長を早める為に、動物の骨粉などを飼料に混ぜ食べさせた為に、牛の脳に異変を起こしてしまい、牛は狂い死にをする事と成った。人間による、神の法則を破った行為です。その結果、食した人間にも悪影響となりました

人の場合は元々、雑食をしていた事も有って、その影響は死では無く、脳の発達へと繋がり頭も大きく成り、元々地上を歩く機会が多かった事も添うし、二足歩行に成って行った様です。地上生活で弱い人間は、洞穴で身を寄せ合い住む事に成ったのです。(第1回目に詳細を記載)

そのうち道具を使う様に成り、大きな草食動物を殺し食べる事となり、ライオンや豹の様に、殺し血を流し見ても平気な、野蛮な性格を持ち合わせる事となり、色んな事情で、その後は、道具を使い人間同士が戦い殺し合い血を流す様に成ったのです。

宗教の中には、肉食を戒める教えが有るのも、この辺りの事情でしょう。

環境の変化で多くの種類の生き物が滅びた中、神代の昔、アダムとイブが禁断の果実、動物の肉を食べなかったら人間は、滅亡していたのかもしれません。肉を食したばかりに、その後、多くの苦を背負う事と人間は成りますが何が何でも生きる・・。生きてやる、、、。そんな思いの行動だったのでしょう。

元々、弱い人間(祖先)は、食糧確保に随分と苦労をし、努力をして居たのですが、飢えに耐えかね死を目の前にした時、魔が差す・・。蛇(悪魔)を向かい入れる事に成り、禁断の果実で有る動物の肉を食べました。

そして魔を心魂に入れる事と成り、死後も天国では無く黄泉(死者)の国に行く事と成る。一つには、エデンの園の意味は、神の住む国を意味し、魔を心魂に入れてしまったから、神の国から追い出される・・・と言う意味です。禁断の果実は赤い血の色を表し、悪魔を心魂に入れた為に、人と人とが争い殺し合い血を流す結果を招く。禁断の果実のもう一つの意味とは人が争い殺し合い流れる血を意味します。

人間の欲と悪の始まりを意味し、苦悩の歴史の始まりでも有ります。

しかし、それでも人間は、生きる道を選んだのですから、長い歴史の上で、今日有る私達も、また、何が何でも、生きて行かなければならないのでしょう。かと言って悪行は成りませんが・・。

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まとめ・・・

アダムとイブは、人間の先祖を指す。蛇とは悪魔を意味し、唆されるとは、魔が指す事を言う。悪魔を心魂に入れてしまった事を言う。

エデンの園とは、現実界では、豊かなアフリカの台地を意味し、心魂の世界では、神の住む国を指す。

永遠の命とは、現実界では、地球の寿命を言い、心魂界では、輪廻転生をする事の無い、神の国で住む事を言う。

命を失うとは、現実界では、輪廻と調和を壊した為に、地球の寿命まで生きられない事を示す。心魂界では、輪廻転生(生まれては死ぬ事の繰り返し)を示す。

追い出されるとは心魂界では、ったままでは、神の国には行けない。黄泉の国(死者)に行くしかない。現実界では、もはや豊かとは言えない変わり果てたアフリカを出て行き、新天地に散らばって行く事を言う。

禁断の果実とは、血を流す肉食をした事を言い、また、人間同士が争い殺し合い流す赤い血を言っています。

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アダムとイブの神話では、現実界と心魂界の二つの意味が存在します。それは、私達には、現実界と心魂界が存在している事を意味します。

私達人間は、生まれては死ぬの(輪廻転生)を繰り返し、心魂から魔を取り除くべく、黄泉の国では無く、狭き門を潜り抜け、神の国(天国)に入るべく、この世で修行を繰り返している身で在り、心魂で有る事に他なりません。

つづく 

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確実に幸せに成る為の学び舎~☆~開校します~☆~共に不動の幸せを掴もう!

2012-05-06 10:56:59 | 確実に幸せに成る為の学び舎

 確実に幸せに成る為の学び舎~★~開校します!

■ 共に、不動の幸せを掴もう!

はじめに・・・。

今、自分を幸福だと思える方も、不幸だと思う方も、どちらだとも言い難い方も、喜びと希望に溢れる方も、絶望で悩み苦しむ方も、どんな状態・状況で有ろうとも、自分が今、ここに存在(生きて)している事は、誰か(人)の愛によって生かされて来た事実が有ります。

私達は、生まれた直後から、自分自身では生きて行けません。ミルクを飲む事も、服を着る事も、オムツを交換する事も、安全で暖かい場所で眠る事も出来ません。誰かの救い(愛)の手が無ければ死んでしまいます。必ず。

親が子供を育てるのは当然の義務だ。当たり前の事だと思うかもしれませんが、義務と当たり前の事・・・それだけでは、子供を育てる事は出来きません。そこに愛があればこそ育てる事が出来るのです。愛を貰った(頂く)からこそ、今の自分が存在をしています。(親の手で育てられなかった方も同様です。)

昔、第一次戦争後、(第二かもしれない。外国の話)親を亡くした多くの戦災孤児の赤ちゃんが出来、国の機関がその孤児達(赤ちゃん)を集め、暖かい設備、管理の下で、定期的にミルクを与えオムツを交換し育て様としたけれど、多くの赤ちゃんが亡くなってしまいました。国の機関ですから、病気の際は、それなりの治療もした事でしょう。しかしながら、多くの赤ちゃんが亡くなってしまいました。

何故、赤ちゃん達は亡くなってしまったのか?それは、抱きしめてくれる暖かい愛情や泣いた時にあやし抱きしめ声を掛けてくれる愛情が無かた・・・もしくは、少なかったからに他なりません。義務や当たり前の事だけでは、赤ちゃんは育たない・・・深い愛情が無ければ、育たない生きられ無い事実が在ります

だから自分が、今、どう言った状況で有ろうとも、深い愛情の上で、存在している命で有る事を、決して忘れてはならないのです。

神代の昔とまでは行かなくても、原始時代の人間は、どうだったのだろうか?

原始時代の我々人間はどの動物よりも、とても弱い存在だった。

肉食動物の様に、早い足と鋭い牙と腕力を持たず、草食動物の様に、遠くを見通す目も敏感に音に反応する耳も、早くに逃げる脚力も持ちませんでした。かと言って、猿の様に、木の上を器用に飛び渡るすばしっこさも身軽さも持ちませんでした。人間は、猿にも劣る肉体的存在でした

どうして猿にも劣る存在だったのか?。それは、頭が重い為、二足歩行をしていたからです。その為、他の動物の様に早く逃げれないし、木の上でも猿に劣ってしまったのです。

では、どうして人間は死に絶える事無く今が有るのか?それは、共に助け合い支え合い分かち合う生き物だったからです。そうしなければ生きられなかったのです。

どの動物よりも弱い人間は、暗い安全な洞窟などで、ひっそりと肩を寄せ合い支え合い助け合って生きていました。

元々は、木の実や果物・地面の中の根(芋)などを食べて暮らしていました。木の実や果物が頃合に成り取ろうとすると、木になかなか上手く登れい・・。やっと登った所で、身が重くって木の先の果物や木の実の所までは辿り付けない・・・。猿に先取りされてしまう・・・。

そこで人間は考えました。木に登る者と、下で受け取る者・・。木に登った者は、木を揺らし木の実や果物を落とす。木の下の者は、落ちた物を拾い集める。そして持ち帰り、皆で分かち合い食べる。(猿は、結構、青い実でも食べるが、人間は完熟した物を食べる理由もその辺に有るのでしょう)。

根(芋)を掘る場合は、見張り役と掘る者とに役割分担をする。また、取った食べ物はその場では食べない。襲われる心配が有るから、洞穴に持ち帰り分かち合って食べていました。

人間と猿とのDNAの差は、わずか4%ほどの違いだと言われます。その4%の違いは色々と有るだろうが違いの一つに、分かち合う(食べ物)が有ります。幾ら賢い猿でも、分け合って餌を食べる事はしません。自分の食べ物を「はい!どうぞ!」とは、渡さない。

赤ちゃんが、やっと立ち上がる・・・歩く・・・初めて人らしい行為・作業は何をするか。?それは、自分の大切な食べ物やおもちゃを大切な人に手渡す又は相手の口に入れようとする事です。愛するもの(母)への初めての作業です。初めての与える愛の行為・作業のはじまりです。猿には出来ません。

弱い生き物は、助け合って生きる・・・。それは、定められた運命であり神(創造主)から与えられた法則(約束事)であります。例えば、ミツバチや蟻を観れば分かります。それぞれに役割分担が有り、助け合って生きています。

人もまた、助け合い支え合い分かち合い生きて行く定めに有ります。 人間の歴史は、そうやって受け継がれ今日が有ります。もし、その事が出来なく成る又はしなく成った時に、人類は滅亡の一途を辿る事と成るでしょう。助け合いは→助け愛・支え合いは→支え愛・分かち合いは→分かち愛とも言えるでしょう。愛を頂き愛を与え合う・・のはじまりとも言えます。

人が決して一人では生きて行けない理由がそこに有ります。

人間のみに有らず、他の動植物も生きとし生ける全てのものは、子を産み育てる生命(子孫)の継続をする、言い換えれば、その行為(本能)は、理屈抜きの愛そのもので有り、愛の行為の積み重ね、愛の継続によって歴史が今が生物の存在あります。

この地球の中では、人も動植物も微生物も命の有るものは、何かを食して命を繋いでいます。それは、他の命を頂き又は与えて生きる輪廻の法則で成り立ち、その全ての成り合は寸分違う事無く調和が取れています。。その調和を崩す存在は、人間ですが、、。言い換えれば、この地球上で、人間のみに有らず、生きし生ける者達全ては、お互いが輪廻の元、命を支えながら和(調和)を持って、命を繋ぎ合い支えあって生きて居るのです。広く考えれば、愛によって繋がり調和によって保たれて来たのです。

大切な他種の命を私達は頂きながら生きて来た、今が有るのです。

長い人間の歴史の中では、災害が有り、ライオンなどに襲われる災いも有ったてしょうし病気や人間同士の戦争や飢えや最近では交通事故など・・。あらゆる理不尽な事が存在しながらも、助け合い分かち合い支え合い、難儀や苦労・苦悩・悲しみなどを乗り越え命の継続(愛の継続)をしながら生きて来た(歴史)のです。

自分の両親や先祖のみに有らず、その前の長い長い歴史の中で、必死に生きた人達の上に、今の私達が居ます。

産み育まれた愛によって、長い苦難の歴史・愛の継続の上で、懸命に生きて来た他種の命を頂き、今の自分が居る(存在)し、そして、決して一人では生きて行けない存在で有る事、輪廻と調和の中で存在している事を今一度、深く受け止めて頂きたいと思います。

如何に自分が尊い命で有り、軽んじては成らない存在である事を再認識して頂きたいのです。

自分の存在を知る・・・認識する・・・己を見つめ直す・・・。そこから、学びはスタートします。分かり切った知識・情報でしょうが、受け止めず聞き流し受け流しでは、学びには成りません。

受け止め、思考し、苦悩し理解し、自分のものにする・・。学び、勉強とはそう言った事に他なりません。

では、これから一緒に、確実に幸せに成る為の学びスタートしましょう。

今日の授業はここまでです。

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スピリチュアルなお話~☆~☆~スサノオ尊現る・・・天から稲光が・・・

2012-05-04 02:26:42 | スピリチュアルな出来事

 スピリチュアルな出来事~★~スサノオ尊現る・・天から稲光が

■スサノオ尊が現われ・・・おろち退治をする!

信じられないだろうが、本当の話で有る。

以前に、お話をしたけれど、悪しき事が度々起こり、得体の知れない者の仕業を感じ、人生のどん底を味わった時に、「お前は、それでも人を信じるのか。人を見限り身を任せれば、楽に大金を与える。全て思い道理に成る。」と突然、声が聞こえた。

その後、釈迦に助けられたお話をしたけれども、助けられたのには訳が幾つか有る。どんなに理不尽な目に有っても、私は自分の至らなさを責めたものの、相手を憎み恨む事は無かった事と、得体の知れない者の誘いを「例え殺されても嫌た!」とキッパリ断った事に有る。だから、釈迦に助けられたのだった。

実は、釈迦に助けられる前に、あの恐ろしい誘いを断った後、私は突然に目覚めた。

天からのあらゆる声を聞く事となり、あらゆる教えと神仏に出合う機会を与えられた。世にも不思議な出来事にも度々、出会い経験をした。

そんな体験の一つにスサノオ尊との出会いが有った。

あの恐ろしい得体の知れない者は、悪魔とも言い、魔神とも言い、おろちとも言い呼び名も姿も変える。日本の神道では、おろちと表現をしている。

その恐ろしい悪魔(おろち)を、私はこの肉眼で見たのだった。通常、見る場合は、心魂又は第三の目で見る。第三の目は、仏像などで表している場合が有るから思い当たるかと思う。とにかく、肉眼でいきなりあんな者見たら、心臓が止まってしまう。足の爪先、手の指先、髪の毛一本づつ、産毛まで震え上がる。あんな思いはもう御免だ。

あの魔神(おろち)は、私の住む数百メート近くに近年現われた怪しい宗教団体の主である。魔神は化けるのが上手い。神にも平気で化ける。80%もっともらしい神事を言い行い20%で本性を現す。

その宗教団体の信者の中には、500万円、300万円、100万円ともっと資財を投じた者も居る。中には、社員に払うはずの給与やボーナスまでもつぎ込みそれでも信じる者も居る。魔神(おろち・あくま)とは、渇欲の塊(かたまり)である。楽くに願いを叶え、もっともらしい教えを説き、相手を信用させ、大切なものを代償に奪い取る。有る時はお金、有る時は命や魂までも奪い取る。

特殊な能力を持つもの又は与えられた者は、得てしてその能力を持つ事を偉いと勘違いし五欲に落ちる。食欲・物欲(金銭も込み)・色欲・権威欲・生命欲である。その能力によって大きな財を成す者も居るが、それは如何なものかと思う。

最初は、確かに神仏を崇めているが、段々と渇欲が増すと、神仏に化けた魔神を崇めている場合が有る。いつも清い心魂と謙虚さが肝要である。

この怪しげな宗教団体に横恋慕した身の程知らずの神事師(鑑定士)が居た。そこの信者を自分の下に呼び寄せ、信者を集め長と成り、その宗教団体に取って変わろうとしていた。能力は自分が上で有ると自負していた。

その神事師にひょんな事から合う機会が有った。容姿は大人でも、まるで子供の魂だった。そのくせ野心も持っている。子供の様に無邪気で純真で白い部分と、権威を持ちたい野心の黒い部分が真っ二つに心魂に対座している。まるで、左腕と右腕を同時に神と魔神が引っ張り合いをしている様だった。

初めて出合った際、お供を連れてやって来たが、彼女が帰って行く空の上は黒い雲(心眼で見た)で覆われていた。異様な疲れに私は襲われた。それから、多少の縁が出来た。

神懸り・・。

有る日の事、スサノオ尊がその彼女の家に幾匹かのおろちが居る為、退治に行く・・・と言い出し、私は言われたままにその準備をし、友といきなり彼女の家を訪問し、数箇所、おろち退治を始めた、、。いきなりである。

1匹目のおろちは家の横の草に覆われた空き地に居た。スサノオ尊が剣を振り降ろすと、天から稲妻の様な光がその場に、剣の如く鋭く差込み落ちた。周りに居た者はあっけに取られた。その後、家の中に入り数箇所、剣を振り、おろちを退治し本星のおろちが咥えた巻物(天の巻物)を取り戻し、天に放り上げ返した。

スサノオ尊は私の体に降り、私は神懸りとなり動かされた。訳の分からないまま体も動き言葉も出てくる。勿論、おろちが私にも見える。私は、自分で有りながら自分で無い。しかし、わずかながら約1%は、自分が存在する。物凄いパワーを感じながらも、1%の私は「なんやねん・・これ・・・。どうなっとるん・・。勝手に体動くし物言うし・・・変や・・・嘘やろ・・・。」そう思いながら動かされて居る。

スサノオ尊が入った際、一瞬にして分かった事は、彼女が大切な天の巻物を知らぬ間にその教団から、おろちと共に持ち帰って居た事。その教団に横恋慕しようと(言い方は悪いが横取り)しようとした事で、その教団のおろちが怒り居座って居た事。スサノオ尊からも神からも、彼女への多大な愛(小さな子供を思う様な)を感じ事。そして、その天の巻物には、神の教えが書かれて居る事。魔神がその巻物を神から横取りしていた事が分かった。

後に、数十万円もする何冊もの神の教えの書物がその教団には有り、彼女はそれを購入していた事を知った。

その教団は、神の教えを写し取り、自分の教団の教えとし高額で販売をしていた。その為、神はその天の巻物を取り上げたのだ。

80%、もっともらしい教えを言い事を成し、後の20%で、正体を現すとは、正にこの事だ。まだまだ、この教団には魔神が存在する。この後も、魔神退治は続く事と成る。

神と対座して魔神は存在する。神事をする者は、何時も清く謙虚で、渇欲に溺れる事無く、強い心魂を養っていなければ決して手を出してはならない。彼女は、子供の無邪気な心魂を持ち合わせているが、悪しき者を追い払う事も消滅する力も全く持って無い。にも拘らず事を起こす・・。なので、神も守護霊も彼女の子守に手をやいている状態だ。

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在り得ないお話をするのには、訳が有ります。神仏の存在を知って頂き、神々や御仏から教えて貰った事を、皆様に伝えたいからに他なりません。何故なら、その教えには、人が誰しもが、真の幸せや安らぎを得る為の教えが説いて有るからです。

天から私への教えは、教えに留まらず不思議な体感や神仏の手足と成り、共に働いた事もさることながら、何よりも難儀と苦悩の体感こそが、一番の学びと成りました。

あの時、人生のどん底・・と思ったけれど、まだまだ、どうしてどうして、そんなものでは無かったのです。

苦難は、かなりの年数を要し、終には限り無い理不尽に至り、そこには、神仏の存在は無かった。光は無く真っ暗で、目の前には死のみが存在しました。

ここに至って尚も私は、「例え貴方々(神仏)が、私を見放し嫌だと言っても、私は変わらずに貴方々(神仏)を愛し信じます。足だろうが衣の裾だろうが、私はしがみ付き離しません。」と叫んで言った。

そこから、真の教えをより深く悟る事が出来たのでした。導かれたのです。

究極の理不尽は、正しく、理不神(理に適わない。報われない。神の存在は無い。)そのものと言えます。しかし、そこに至った時こそ、深い深い神仏の愛が存在します。真っ暗闇には、深い神仏の愛が存在します。

目覚めてから気が付けば10年余り経っていました。浦島太郎では有りませんが、すっかり容姿は老婆に成っていました。30才は老けた感じです。或る日、自分でもびっくりしました。「何時の間に、こんなになった~んやろ。」鏡なんてこの10年余りろくろく見た事が有りませんでしたから。強烈な苦難は、身も心魂もぼろぼろにしてしまったのです。

目覚めた時、もうこれで救われる・・。そう思ったけれども、おっとどっこい、そこからが、苦行の始まりだった。星一つ無い、真っ暗闇、死のみが存在するに至るまで、追い詰められ試されて初めて解る真の神仏の教えが有る。

この世は無常である(釈迦の言葉)。常に変わっています。明日は分からない・・と言う事です。だから、悔いの無い様に、今を生きなくては成りません。私も同様です。明日は、生きているとは限りません。まだまだ修行の身で、至らない者でありますが、明日が分からないからこそ、教えて頂いた事を伝える必要が有ると思ったのです。

私は、天より教えられた事を伝え、一人でも多くの人に幸せに成って頂きたいと願っております。

近日、カテゴリーの中で、幸せに成る為の学び舎を開校します。多少、難しい事も出てきますが、それは、しっかりと自分と向き合う事に他なりません。

どうか、ブログをご覧頂きたいと深く願っております。

そして、真の安らぎと不動の幸せを手に入れて行きましょう。

共に・・・。

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スピリチュアルなお話~☆~☆~透視!~病気・悪い所が分かってしまう。

2012-05-01 22:59:31 | スピリチュアルな出来事

 スピリチュアルなお話~☆~透視!病気・悪い所が分かる。

■ 透視で病気・悪い所が分かってしまう。

昨夜(深夜)のテレビの番組で、最近良く見るマツコさん(良く太ったオカマ?の方)、たまたまテレビを付けたら出ていた。

何時もは気にした事も無いけれど、その日に限って、気が付いたら既にマツコさんを透視していた。「この人、血管が無い・・・。」体の中心を外した部分、まるで分厚い脂肪の毛皮を着ている様だ。その脂肪の部分には血管が無い。脂肪ばっかりだ。「何で?」不思議に思った。普通は毛細血管は体の隅々まで行き渡って居るのが当たり前で有る。「何でやろう・・?」見事なまでの分厚い脂肪の毛皮である。

直ぐに分かった。今日のテーマの一つに、マツコさんの毛細血管を計るテーマが有った。本人は、私は血液検査で異常は無く血液はサラサラだと言っていた。

が、医師が最新の機器を使って手の毛細血管を写して見ると、毛細血管が詰まり潰れて無かった。脂肪のみだった。

そうなんだ・・。私は、医師でも看護師でも無いので分からなかったが、透視をした際に、毛細血管が無い・・脂肪だけに観えた理由が、分かった。

私は、番組のテーマを予知し、マツコさんを透視をしていたのだった。「マツコさん、金回りが良いもので、凡人の私達には口に出来ない高級な食べ物を沢山食べていますね。気を付けないとね・・。」食欲・性欲・物欲・権威欲・生命欲・・欲と名の付くものは、ほどほどにしないと命取りに成りますからね。

私は、病気や事故に関する事は、透視能力が特に良い様で、良く分かる。透視しなくても分かる事が有る。天からの言葉で教えてもらう事が有る。

同じ職場で働く人の友達の話しだ。

職場の人の話では、その友達は母子家庭で、やっと一人で子供を育てあげたが、何かの理由で今は子供と疎遠になり、一人で年老いた父親を見ている居る。その友達が病気になり今、入院をしているのだが癌で、どうも危ない・・。子供も見舞いに来ない。

その友達が入院するや否や、父親の面倒も見ない兄夫婦が、父親の財産や預金を勝手に預かり名義を変えようとしているらしい・・・酷い話だと言っていた。

私は、気の毒で仕方が無かった。自分とも合い重なり、深く悲しんだ。私は、天にお願いをした。「私は、その人は見知らぬ関わりの無い人だけれども、余りにも理不尽で気の毒です。何とか救っては頂けないでしょうか?」

すると、天から「分かった。心配は要らない・・。薬が体に合い良く効く。家に帰れる。」そう言われた。

私は、その旨、職場の人に伝えた。「まさか・・・!そら無理だわ。」そんな心の声が職場の人から聞こえてきたけれど、その後、そのお友達は、無事退院をした。

見知らぬ人だけれども、彼女の性格や頑張りは良く透視できだ。

神は、そんな彼女を見捨てず救われた。理不尽が有ってはならない。彼女には、年老いた父親の面倒を見る役目がまだ残っている。

救われなければ成らない命が有る。 

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