昨日の日曜討論では、ウクライナについて話題になった。
ウクライナでの、自由化運動は左翼の台頭の典型例であろう。
民主主義を謳っていながら、自身の能力の欠如の問題を棚に上げている。
民主主義社会においては強者の社会であり、全てが自己責任だ。
例えれば、動物園に飼われていた動物を再び元の自然界に戻したところでその動物は生きていく事は出来ない。
これと同じ事は、日常でも派遣労働の法整備等で発生している。
自由に働きたいと、期間社員や派遣で働く、いわばフリーの労働体制に対する要望が高まった結果だ。
しかし、使い捨てにされただけだった。
動物園の様な社会から野に放たれた事によって自立して生きる事が出来なかったのだ。
つまり、社会主義的な思想の元で育った人が民主主義的な競争社会で生きていく事は困難なのだ。
日本がまだ良いのは、元々は社会主義体制の国でありながら、民主主義を受け入れている点にある。従って、困難ではあるが、完全に自由競争の体制に移行できる可能性がある。
過去の派遣労働などのフリー化への移行の失敗を認めながらも、間違った道では無いという事を主張していかなくてはならない。
また、子育てにおいても影響が見られる。
民主主義的な状況下での子育てのシステムが長い間の社会主義的なシステム下において、忘れ去られてしまった可能性がある。
野生動物を動物園で飼育すると、自然界で餌を得る方法が分からないだけでなく、子育ての方法も分からなくなる。
中には本能として潜在的な能力を発揮して生き残るものがあるだろうが犠牲は大きい。
つまり、子育ての能力の差が子育ての質の差となって現れるが、それで良いのかという問題が発生する。世代を越えて能力の差が継承されると、それが格差として明確になり、差別に繋がるのではないか?
人種差別などはその代表例として考えられる。
これでは民主主義の平等性が長期的に崩れてしまう。
しかし、この問題は、社会主義的な生活が生み出した負の側面の方が大きいのであり、民主主義的な子育ての方法論というのはそもそも無い。
ここでも野生生物の社会を例に考えてみる。
一般に子育て中の野生動物は強靭であり、外部からの攻撃に耐えうる能力を持っている。子育てにおける自由競争の原理とはどういうものなのか?
この点は元に戻って、より強いオスの子孫を残そうとする本能に立ち戻れば分かる。つまり結局、弱者は子育てを放棄するという選択をする以外無いのだ。
子育ての放棄が悪の様に語られているが、自然界では有り得る事であり、第三者が育てる以外に、避妊や堕胎等の方法は合理的な方法として認められるべきである。
民主主義の自由競争下では、子孫を残そうとする場合、男女共に水準以上の強靭な精神力や工夫する能力、リスクを避ける本能などが求められる。
また、それらの失敗による片親での養育などは通常、困難を伴うが、民主主義社会ではより一層困難になる事が予想される。国や自治体の社会保障は、国を弱体化する要因となり得るので、民間の保険や養育設備の利便性の向上により競争力が維持されたものが使われるべきだ。
一方、社会主義社会の様な分別無く増殖できる社会では、差別、階級社会、独裁権益が形成され、それを打破する為に内戦が起きたり、体制を維持する為に他国を攻めたりと、必ず戦争へと発展していく。これは、あらゆる社会問題の根源的要素だと言える。字面では強靭に見えるがこれらを形成しているのは弱者に他ならない。権益を確保している内に時間を経て競争力が失われて行った結果なのだ。国家が競争力を失う事がいかに危険か。弱いトップは独裁者となり、武力に頼らざるを得なくなる。
もし社会主義で成功しようとしたら、非常に厳しい掟社会を形成し、外部の文化的侵入を阻まなければならない。この体制を強靭なまま維持する事は不可能に近い。インディオが原始的な生活を維持する事が出来たのは、外部との接触が全く無かったからだ。
宗教団体もその教えに合理性が無ければ、信者を騙し続ける必要がある。嘘を隠し通しているのは他ならない宗教指導者自らとなる。
しかし、この文化もカメレオンの様にうまくやって来た経緯があるので強者と言えるのかもしれない。いずれも閉鎖性をいかに維持し閉鎖的社会の中で指導者がいかに強者であり続ける事が出来るのかにかかってくる。
ウクライナでの、自由化運動は左翼の台頭の典型例であろう。
民主主義を謳っていながら、自身の能力の欠如の問題を棚に上げている。
民主主義社会においては強者の社会であり、全てが自己責任だ。
例えれば、動物園に飼われていた動物を再び元の自然界に戻したところでその動物は生きていく事は出来ない。
これと同じ事は、日常でも派遣労働の法整備等で発生している。
自由に働きたいと、期間社員や派遣で働く、いわばフリーの労働体制に対する要望が高まった結果だ。
しかし、使い捨てにされただけだった。
動物園の様な社会から野に放たれた事によって自立して生きる事が出来なかったのだ。
つまり、社会主義的な思想の元で育った人が民主主義的な競争社会で生きていく事は困難なのだ。
日本がまだ良いのは、元々は社会主義体制の国でありながら、民主主義を受け入れている点にある。従って、困難ではあるが、完全に自由競争の体制に移行できる可能性がある。
過去の派遣労働などのフリー化への移行の失敗を認めながらも、間違った道では無いという事を主張していかなくてはならない。
また、子育てにおいても影響が見られる。
民主主義的な状況下での子育てのシステムが長い間の社会主義的なシステム下において、忘れ去られてしまった可能性がある。
野生動物を動物園で飼育すると、自然界で餌を得る方法が分からないだけでなく、子育ての方法も分からなくなる。
中には本能として潜在的な能力を発揮して生き残るものがあるだろうが犠牲は大きい。
つまり、子育ての能力の差が子育ての質の差となって現れるが、それで良いのかという問題が発生する。世代を越えて能力の差が継承されると、それが格差として明確になり、差別に繋がるのではないか?
人種差別などはその代表例として考えられる。
これでは民主主義の平等性が長期的に崩れてしまう。
しかし、この問題は、社会主義的な生活が生み出した負の側面の方が大きいのであり、民主主義的な子育ての方法論というのはそもそも無い。
ここでも野生生物の社会を例に考えてみる。
一般に子育て中の野生動物は強靭であり、外部からの攻撃に耐えうる能力を持っている。子育てにおける自由競争の原理とはどういうものなのか?
この点は元に戻って、より強いオスの子孫を残そうとする本能に立ち戻れば分かる。つまり結局、弱者は子育てを放棄するという選択をする以外無いのだ。
子育ての放棄が悪の様に語られているが、自然界では有り得る事であり、第三者が育てる以外に、避妊や堕胎等の方法は合理的な方法として認められるべきである。
民主主義の自由競争下では、子孫を残そうとする場合、男女共に水準以上の強靭な精神力や工夫する能力、リスクを避ける本能などが求められる。
また、それらの失敗による片親での養育などは通常、困難を伴うが、民主主義社会ではより一層困難になる事が予想される。国や自治体の社会保障は、国を弱体化する要因となり得るので、民間の保険や養育設備の利便性の向上により競争力が維持されたものが使われるべきだ。
一方、社会主義社会の様な分別無く増殖できる社会では、差別、階級社会、独裁権益が形成され、それを打破する為に内戦が起きたり、体制を維持する為に他国を攻めたりと、必ず戦争へと発展していく。これは、あらゆる社会問題の根源的要素だと言える。字面では強靭に見えるがこれらを形成しているのは弱者に他ならない。権益を確保している内に時間を経て競争力が失われて行った結果なのだ。国家が競争力を失う事がいかに危険か。弱いトップは独裁者となり、武力に頼らざるを得なくなる。
もし社会主義で成功しようとしたら、非常に厳しい掟社会を形成し、外部の文化的侵入を阻まなければならない。この体制を強靭なまま維持する事は不可能に近い。インディオが原始的な生活を維持する事が出来たのは、外部との接触が全く無かったからだ。
宗教団体もその教えに合理性が無ければ、信者を騙し続ける必要がある。嘘を隠し通しているのは他ならない宗教指導者自らとなる。
しかし、この文化もカメレオンの様にうまくやって来た経緯があるので強者と言えるのかもしれない。いずれも閉鎖性をいかに維持し閉鎖的社会の中で指導者がいかに強者であり続ける事が出来るのかにかかってくる。