零戦~海軍零式艦上戦闘機 52型
東京都 千代田区 九段北 靖国神社 遊就館
日本海軍の傑作機 零式艦上戦闘機 零戦
零戦は、日中戦争で初めて実戦投入されてソ連製の中国軍戦闘機を相手に圧倒的な戦果を挙げ、次いで第2次世界大戦~太平洋戦争でもアメリカ、イギリスを相手に活躍した日本海軍の戦闘機です。
大戦初期に高性能な機体として敵に恐れられた零戦21型は、昭和18年代になると、アメリカのヘルキャットやムスタング、イギリスの投入してきたスピットファイアといった新鋭戦闘機に対し速度や武装で劣るようになってきて、苦戦するようになってきました。
そこで32型、22型に続いて開発されたのが52型です。
速度を向上させるために主翼の幅を11mに切り詰めつて円形に整形し、カウリング(エンジンをおおったカバーを再設計して推力単排気管(エンジンの排気を利用して若干の推力を得るようにした排気管)を装備してモデルチェンジしました。
これにより零戦22型の最大速度565km/hより25kmも速い590km/hを出せるようになりました。
この零戦52型のシリーズは、合計約6,000機が生産され、太平洋戦争終戦まで活躍し、日本の本土防衛に尽くします。
《零戦 52型 機体データ》
乗員:パイロット1名
機体全幅(主翼幅):11m
機体全長(プロペラスピナー先端まで)9.12m
全高(地面から垂直尾翼先端まで):3.51m
エンジン
中島社製 栄(さかえ)21型空冷星形エンジン
エンジン出力:高度2,850mで1,100馬力
最大速:590km/h
機体に搭載された武装:20mm機関砲が2門~機首上面、7.7mmの機銃 2門、主翼先端。
1941年 昭和 16年11月26日、日本による大陸進出を批判的なアメリカとの交渉が決裂したことで、日本海軍機動部隊は、赤城、加賀など、6隻からなる空母を中心とした第一航空艦隊を編成し、北方四島の択捉島(えとろふとう)単冠(ひとかっぷ)湾を出航してハワイ諸島を目指します。
アリューシャン列島に近い北太平洋を東へ航行し、12月2日、ハワイの北に差し掛かった位置で連合艦隊司令長官の山本五十六より真珠湾攻撃を命じる暗号~ニイタカヤマノボレ一二〇八~を受け、第一航空艦隊は南下、アメリカ軍に発見されることもなくハワイ オアフ島沖約420キロの海上に迫り、日本時間 12月8日、午前1時30分、艦隊は真珠湾へ向け、攻撃隊を発艦させました。
第一航空艦隊の零戦は制空隊として、真珠湾の軍事施設に爆撃を行う九九式艦上爆撃機(九九爆攻)、アメリカ艦隊に魚雷攻撃を行う九七式艦上攻撃機(九七艦攻)を護衛しつつ、ハワイ上空の制空権を握るべく発艦しました。
第一次攻撃隊183機は、ハワイ オアフ島の北から反時計回りで侵入し、島南部の真珠湾に迫りました。
間もなく上空に差し掛かると、淵田美津雄 中佐指揮の攻撃隊が第一撃を開始。
淵田中佐は~トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功セリ)の打電を艦隊に行い、戦艦アリゾナを中心に、敵艦隊に大打撃を与えます。
真珠湾に一次、二次と二度における奇襲を行った日本軍は、戦艦5隻、地上の軍用機も多数撃破する大きな戦果を挙げました。
この作戦は零戦が真珠湾の制空権を握り、爆撃などの地上攻撃を的確に行ったことが成功に導き、開戦の主役が戦艦による砲撃から、戦闘機による攻撃に変わったことを証明しました。
ただ、真珠湾攻撃に対しては、重大な問題が起きました。
一つは、アメリカに対する宣戦布告を通告する前に攻撃が行われ、このことが、アメリカ国民の意識を挫いて早期講和に持ち込もうと考えた連合艦隊司令長官 山本五十六の予想を覆し、~リメンバー・パールハーバー~を叫び、アメリカ国民の戦意高揚を煽ることとなったこと、もう一つは、第一航空艦隊の南雲忠一中将司令官が、二次攻撃が終了した時点で、多数の艦船を撃破したことで作戦は成功したとして、海軍軍事工廠や石油タンクなどの施設を完全には破壊せずに引き上げてしまったことで、真珠湾の軍事施設が早期に回復し、艦隊の立て直しをできたこと、さらに第一の目標である真珠湾に居るであろう3隻の空母~エンタープライズ、レキシントン、サラトガが出航した後で攻撃を免れたことでした。
この3隻が半年後のミッドウェー海戦に参加し、日本海軍は致命的な敗北を犯します