関東大震災 東京大空襲慰霊碑
東京 台場海浜公園
大正14年、治安維持法が成立した日本。
第一次世界大戦後の戦後恐慌を皮切りに、関東大震災の震災恐慌と二度の大不況に見舞われ、そんな社会不安が国中を覆う流れの中で、ロシア革命によりロマノフ王朝の滅亡、ロシアはソビエト社会主義共和国連邦という日本とは異質の国家体型へと変貌、企業、団体等が得た利益を国が吸い上げた後に国民に分配する国家運営システムは、日本の低所得、左翼思想の者達に熱狂的に支持され、この流れの中で日本共産党は生まれ、反体制派の組織、人物を徹底的に取り締まり、弾圧する目的で特高〜特別高等警察が生まれます。
特高の誕生は国民の自由な集会、思想すら弾圧の対象となり、翌年末に幕を明けたばかりの昭和の時代の到来に暗い影を落とし、出口の見えない大不況の中で昭和も3年を過ぎていました。
一方、大陸では…
日露戦争の勝利を経て満州(現在の中国東部)を租借地として利用することが出来た日本。
清国は西欧諸国の草刈り場となっていた時に日本への日清戦争で生じた巨額の戦後賠償金を国民に課したために国民が王朝を見放す結果となり、これを契機に辛亥(しんがい)革命が起こり、呼応する様に各省の有力者らが決起して軍閥を作って内乱となり、やがて中華民国臨時政府が発足、清王朝の皇帝〜宣統帝 溥儀(ふぎ〜ラストエンペラー)は退位し、清王朝は滅亡します。
この中華民国(後の中国〜中華人民共和国)の発足間もない混乱は、日本の租借地〜満州への治安悪化も不安視され、日露戦争時に日本に協力していた満州を含む東三省の統治者の張作霖(ちょうさくりん)との関係が悪化します。
〜張作霖爆殺事件〜
張作霖は元々、馬賊の頭目から身を起こしてアヘンの密貿易で力を付けた身上で、大陸への足がかりを狙った日本とは利害関係で協力する間柄となっていましたが、張作霖が省を統治するまで力を握ると、関東軍は日本の満州経営に邪魔な存在となると考えました。
しかし、日本政府は内乱状態の中国全土に介入するよりは、張作霖を満州に置いた方が安全を保てると読んでいました。
張作霖が満州の自主独立を目指すだろうと間近で監視していた関東軍はついに独断で行動を起こします。
関東軍の参謀、河本大作大佐らが主導して北京ー奉天間の線路に爆薬を仕掛け、張作霖の乗る汽車を列車ごと爆破する行為にでました。〜張作霖爆殺事件〜