歴史めぐり 街物語 静岡市葵区 2
臨済寺 山門
静岡市 葵区 大岩町
臨済寺は、賤機山(しずはたやま)の尾根沿いの母(北川殿)の屋敷跡地に五男 栴岳承芳(せんがくしょうほう~後の今川義元)のために、父の今川氏親が新たに伽藍を造営した善得院が始まりで、京、妙心寺で栴岳承芳を指導した師 太原雪斎を招いて住持としました。
山門~今川神廟落慶記念時
本堂
1536年 天文5年、8代当主 氏輝が急死してこの地に葬られ、氏輝の法号 臨済寺殿となったことを機会に臨済寺と改称しました。
本堂~今川神廟落慶記念 特別一般開放時
氏輝の死後 異母兄の玄広恵探と跡目争いが勃発し、栴岳承芳は還俗して今川義元を名乗ります。
住持の太原雪斎は義元を支持。
主だった今川家臣も義元を支持して戦いに勝利して玄広恵探は自害し、跡目争い 花倉の乱は終結し、今川義元が新しい今川氏当主となりました。
仏殿
座禅堂
竹千代 手習いの間
今川の人質となっていた幼少期の松平竹千代(後の徳川家康)が雪斎の下で学門を学んだ手習いの間
雪斎が着用した陣中袈裟
今川神廟
今川義元 墓、今川氏輝 墓
臨済寺は修行寺のため、今川義元公命日の5月19日と摩利支天祈祷会の10月15日以外は通常非公開です。
音羽山 清水寺
静岡市葵区音羽町
静岡市葵区音羽町の清水寺は、山号を音羽山と言うことから、京都の清水寺と山号も同じで、これは 戦国時代に寺の創建を重臣、朝比奈 元長に命じて没した駿河の守護大名 今川氏輝の遺命から京都の仁和寺から僧を招いて勧請した際、周囲を含めた環境が清水寺に似ていたためで、現在も地元住民から清水(きよみず)さんと呼ばれてます。
その後、今川氏輝の遺命がありながらも、今川家の後継者争い(花倉の乱)などで創建は進まず、朝比奈元長が遺命の創建を果たしたのは、当主が今川義元となって磐石となっていた1559年 永禄2年のことでした。
ただ、翌年には桶狭間の戦いで当主の今川義元が討ち死にして、今川家は大混乱となります。
今川家の当主が次代の氏真となると、国自体の弱体化が顕著となり、隣国 甲斐の武田信玄が駿河の国に狙いを定め襲来します。
今川家の館に比較的近かったため、武田信玄の兵火に見舞われた清水寺も甚大な被害を受け、廃絶同然となり、清水寺が復興の運びとなるのは、武田氏滅亡後、徳川家康が織田信長から駿河国を領有してからでした。
家康は度々 清水寺を訪れて念持仏の千手観音を奉納して崇拝しました。
家康が病魔に倒れた1616年 元和2年、落慶供養が行われ、以降 再建と災害の被災を繰り返しなから現在に至ります。
清水寺の北隣には、県内でもっとも古い清水山公園があり、山腹に建てられた舞台は京都 清水寺の舞台を彷彿させ、そこを音羽の滝を模したように人工の滝が流れています。