

皇居 二重橋から伏見櫓の景観
(旧西の丸、伏見櫓)
テレビなどで、皇居を紹介されるとき、奥の伏見櫓をバックに、二重橋の映像がよく使われると思います。
西の丸には、徳川家康以降の隠居した将軍が大御所となり、過ごした御殿や、世継ぎとなった次期将軍が暮らしました。
二重橋は現在、皇居正門の石橋として使われています。

江戸城天守台から都内を望む。
この天守台には、かつて、五層 48メートルの白亜の漆喰塗りの大天守が立っていました。
面積にして織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城さえも凌ぐ造りでした。
増築や火災で家康時代の慶長天守、秀忠時代の元和天守、家光時代の寛永天守と三度建て替えられ、寛永天守が明暦の大火で失われた後は、再建はされませんでした。
四度目の再建を検討された席上で、家光の異母弟の保科正之が、大権現様(家康のこと)が行った元和堰武(げんなえんぶ)により、もはや江戸を攻める諸侯が居りましょうや?との発言が決め手となり、見送られました。
泰平の世に巨大な天守は必要なかったのです。

巽櫓
巽櫓(たつみやぐら)は、桜田二重櫓とも呼ばれ、江戸城三の丸の桔梗壕の隅に端正な姿を現在に残す貴重な現存する櫓です。

大手門
江戸城の正門にあたる大手門は、徳川家康の天下普請の命に伊達政宗が請け負った櫓門で、枡形の構造に石垣、土塀、それに櫓門により敵兵の直進を妨げる役割りを果たしますが、天下泰平の江戸の世で、戦乱で使われることはありませんでした。

江戸城 (現、皇居)
東京都千代田区千代田
徳川幕府の政庁として君臨した江戸城は、築城は1457年 長禄元年の室町時代中期に関東管領 扇谷上杉家の知将、太田道灌により行われました。
ただ、その造りは、天守も石垣もない中世城郭で、現在に伝わる道灌堀が名残を残す程度でした。
1590年 天正18年、小田原北条氏が降伏し、北条討伐が成り、豊臣秀吉は徳川家康に論功行賞をするにあたり、
関東の利用に不便な湿地帯に残る小田原北条氏の古城に過ぎなかった江戸の地を推薦したといいます。
天正18年 7月13日
小田原城内にて論功行賞の席で、秀吉に広大な関東の地への転封を命じられた際、健在である頑強な北条氏の居城 小田原城に本拠地を置くこと、また、源 頼朝が再起を賭け、要害の地に坂東武者の幕府を置いた鎌倉は、秀吉にいたずらに危険視される愚をあえて採らず、家康は中世城郭の江戸城に1590年 天正18年の8月1日に入ります。~
~家康 江戸御打ち入り~
旧暦の8月1日、中世より八朔(はっさく)と呼ばれる祝日で、早稲の収穫を喜び、親しい人に贈物を贈る風習がありました。
家康は吉日としてこの日を選び、正式に江戸城に入りました。
家康は、江戸入府前に家臣に江戸庶民の民情を入念に調べておかせていたことが幸いし、政策に治安や水事情等を考慮しておいたこともあり、家康自身が豊臣政権の重役を担うためにその身を京、大坂に置かねばならない間も江戸の町は順調に発展を続けました。
江戸城 2に続きます。