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日本歴史紀行

八十八夜 寄稿 3 牧之原大茶園 1



牧之原大茶園から大井川方面を望む





牧之原大茶園 ~現、島田市阪本、谷口原 ~





牧之原大茶園~島田市阪本、権現原~





牧之原大茶園~島田市阪本、初倉方面~





牧之原大茶園~開拓記念碑~







開拓記念碑~拡大~碑名に中條景昭、今井信郎ら


牧之原大茶園~開拓記念碑~


記念碑所在地
静岡県島田市阪本4846

牧之原大茶園
大井川以南の島田市、牧之原市、菊川市




明治維新以後、徳川幕臣の約6千名が幼年ながら静岡藩主となった徳川家達(徳川宗家16代)が駿河 府中城(駿府)城主となって封じられたことに伴い、家達の居る駿府に入りました。


駿府城下の町は、江戸から追われる様にやって来た旧徳川幕臣の士族であふれ、城下に留まらず、駿府近隣の村々にも移住しました。

1869年 明治2年6月、
旧幕臣の多くが身の振り方も定まらない中、明治新政府は版籍奉還(土地と民を治めていた藩主の職を解き、朝廷に返還する)を断行し、藩主 徳川家達は職を解かれ、藩知事に改めて任命されたことにより、それまで藩主の家臣だった者達は役職を失い、路頭に迷うことが確実視されました。

これに先立ち藩知事、徳川家達が駿府70万石で封じられ、入府したことに伴い、水戸での謹慎だった徳川最後の将軍 徳川慶喜が駿府城下の宝台院に移ることとなり、慶喜を水戸から駿府へ護衛してきた幕臣の精鋭隊の名の一隊がありました。

この精鋭隊は、駿府に入って慶喜の護衛を果たした後に新番組と名を改めました。


隊長の名は中條金之助景昭、景昭は13代将軍 徳川家定 幕政時代に御書院番を期に役職を得、以来、いわゆる幕末を迎えた頃には、幕府か浪士組を集め、(そのうち近藤 勇ら、一部が上洛して新選組となった)その者達約100名以上の取り扱いを山岡鉄舟らと命じられ、幕臣中心に結成された新徴組の支配役と、江戸市中を守ってきました。

その中條金之助景昭が藩知事、徳川家達の治める駿府の領地ながら、水路に乏しく、耕作に適さず、百姓すら放置し、草刈り場にしかなっていない金谷原(牧之原)という台地があることを耳にします。


2に続きます。



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