武田信玄公誕生の地
要害山城跡~遠景
山梨県 甲府市 上積翠寺町
要害山 案内碑
要害山
要害山城は、1520年 永正17年に信玄の父、武田信虎が築いた山城です。
居館と政庁を兼ねた武田氏館(躑躅ヶ崎館~現在の武田神社)に対し、緊急時に避難し、いざ
となると、籠城するための詰の城としての役割を担っていました。
1521年 大永元年、武田信虎が今川氏の軍勢に追い詰められた際は、身籠っていた正妻の大井夫人をこの要害山に避難させ、出産に備えました。
要害山城 山麓
堅堀跡
不動曲輪、武田不動尊
要害山城は、山麓から竪堀で守りを固め、山腹から主郭に至る通路に沿って虎口竪堀、土塁を構築し、さらに要所に門を配置して厳重な防御を固めていました。
山頂主郭
要害山城山頂の主郭には、建物、庭園か存在したと推定されています。
1521年
大永元年 9月、信玄公生母 大井夫人の懐妊当
初、父 武田信虎は、甲斐の国衆と戦い、さらに国衆を支援する駿河の今川氏との戦いの渦中にあり、駿河から富士川沿いを遡って猛将 福島正成の軍勢 一万五千が雪崩れ込み、武田の本拠地 躑躅ヶ崎館も危うくなり、大井夫人は背後にそびえる要害山城(後日 掲載します)に避難することになります。
大永元年 10月10日、武田と国衆、今川の戦いは躑躅ヶ崎館の南西、荒川で激突し、大軍相手に武田家の命運もいよいよ尽きるかという時、武田の将兵に加え、領民総出で迎え討ったために形勢は逆転し、一度 撃退に成功します。
その後、小競り合いの中、11月3日、敵軍勢の撃退の報に安堵した大井夫人が陣痛を起こし、要害山城の麓 積翆寺から運ばれた井戸水が産湯となり、大井夫人は男児を出産。
夫人の男児出産の報せは、使番により躑躅ヶ崎館にももたらされ、奮い立つ武田の軍勢は攻勢に転じ、ついに今川の敵大将 福島正成を討ちとりました。
平安時代から続く甲斐源氏の名門、武田氏滅亡の危機に勝利をもたらした男児の誕生に父 信虎は我が子に勝千代と命名しました。
武田信玄公 誕生地碑
題字~日露戦争当時の連合艦隊指令長官 東郷平八郎
要害山城の南東尾根上には支城の熊城があって連続する小郭で守られています。