
カトリック清水教会
静岡市清水区岡町
本日はクリスマスイブですね。
もともとクリスマスは、キリスト教における、イエス・キリストの降誕祭で、4世紀頃になり、キリストの降誕祭が12月25日に行われ、その後、世界中で習慣化したと言われています。
もっとも、現代社会では、子供がサンタクロースからのプレゼントを楽しみに待ち、恋人同士は甘い夜を過ごしたりと、違う側面がクローズアップされてきています。
キリスト教において欠かせない教会について、静岡市内にあった教会の話をひとつ再掲載致します。
カトリック清水教会
カトリック清水教会は、かつて徳川家康が駿府(現在の静岡市)に隠居し、家康の別邸の御浜御殿の跡地付近に献堂されました。
かつて東海一の親分と恐れられた清水次郎長が幕臣、山岡鉄舟に感化されて社会事業家として行なった江尻湊の港湾整備により生まれ変わらせた清水港は、静岡を海外への玄関口として生まれ変わらせ、また、明治以降に開拓、栽培された牧之原台地の茶葉の輸出に大きく貢献し、貴重な外貨獲得を実現させた良港でした。
やがて1935年、昭和10年、清水港や三保半島を見渡す緩やかな御殿跡地であったこの傾斜地に、フランスから来日したカトリック宣教師のドラエ神父の構想・設計する形でカトリック清水教会が1935年昭和10年に献堂となりました。
通常、建設されるカトリックの聖堂はレンガや石材を積み上げて造るゴシック様式ですが、日本の大工の手による木造技術で再現された和洋折衷の技術が融合した珍しい建築物とされ、特徴的な二つの尖塔(せんとう)を引き立たせるように春には周辺の桜が咲き誇り、内部の畳敷きにはステンドグラスを通して美しい光が降り注ぐという独自の美しさを生み出しました。
ですが、それまで清水に多大な利益をもたらして来たこの良港が太平洋戦争時には大きな悲劇をもたらします。
清水地区は太平洋戦争終盤になると、何度も空襲や艦砲射撃にさらされ、1945年昭和20年7月7日の清水空襲では、市街地の半分が焼け出されることになります。
この空襲で清水地区の大部分の建物が灰燼に帰し、多くの住民が家を失います。

奇跡的に焼失を免れ、戦火の中、教会を運営してきたドラエ神父は、聖堂を救護所として信徒以外の焼け出された住民に開放しました。
ルシアン・ドラエ神父
戦中の清水空襲時には、聖堂を開放して戦災した清水の住民たちの保護に尽力したルシアン・ドラエ神父は、1884年(明治14年)9月18日フランスのブローニュ地方で生まれました。
パリ外国宣教会に入り、25歳の時、1909年(明治42年)に宣教師として来日。
最初は東京、八王子市、群馬県前橋市などの各地において伝道に従事した後に1914年(大正3年)にクレマン神父の後任として静岡教会主任司祭に就任します。
静岡市はもちろん浜松市、清水市(当時)、焼津市、藤枝市といった静岡県下の主要都市の各地を熱心に巡歴してカトリック思想の布教、普及につとめました。
やがて風光明媚な景勝地としても知られる清水の姿がかつて青年期まで過ごした故郷のフランス、ブローニュ地方にとてもよく似ていることもあり、清水の地に私財を投じて聖堂を建てるべく設計していたところ、1932年(昭和7年)にこれまでの彼の勢力的な活動に賛同した6代目鈴木 與平(よへい)〜県下最大の物流会社、鈴与の創業者が用地取得に便宜を図り、1935年 昭和10年にさらに船大工らが手を貸したことで、聖堂内部は木造ゴシック様式といった変わり種の建築。床には畳敷きに長椅子が置かれるといったユニークな設計が成されました。
ドラエ神父は太平洋戦争中も日本に留まり、1945年6月の静岡大空襲の際には、必死で教会を火災から守ったと伝えられており、戦後、いったんフランスに帰ったものの、再び日本に戻り、今度は伊豆地方の布教活動を開始し、余生を過ごした後、1957年(昭和32年)12月8日に72歳の生涯を閉じました。
この様々なドラマを持つ清水教会ですが、現代の耐震強度基準に満たないことが判明し、解体となりました。
いずれ基準を満たした形で近い将来再建されると信じています。