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日本歴史紀行

歴史紀行 85 ‐ 2 奥州 藤原氏 伽羅御所跡 2




奥州 藤原氏 伽羅御所跡
岩手県西磐井郡平泉町字平泉伽羅楽



源義経は平家討伐最大の功労者ながら、兄、頼朝の猜疑心から鎌倉への凱旋を拒まれ、自らの心情を切実に訴えた腰越状は御家人、大江広元により黙殺されて頼朝には届かず、関東では居場所の無い身の上となり、生まれ故郷である都に戻ると、刺客 土佐坊昌俊に狙われる始末でした。


これに義経は兄、頼朝に討伐の宣旨を朝廷に働きかけたことで兄弟間の破局は決定的となりました。


武略ならともかく、謀略、政治力に関しては頼朝が一枚も二枚も上で、逆に義経自身が討伐の対象となってしまいました。


海路、西国を目指すも船は難波して断念、吉野山中を彷徨い、都に潜伏、脱出して伊勢、美濃、近江、越前、加賀、越中、越後、出羽、陸奥と山伏や稚児に変装しての長旅は1年に及び、義経主従が平泉に入ったのは、1187年、文治3年2月のことでした。


かつて平泉の王〜藤原秀衡の庇護の下、兄、頼朝の挙兵を知り、平泉を発った義経。


それから月日は流れ、7年の時が流れていました。


旅立った義経に佐藤兄弟を従者に送り出した当時の秀衡は、平家が一目を置き、鎌倉の頼朝など歯牙にかけない王国の主でした。


ところが、七年の歳月は秀衡に老いと病をもたらしていました。



3に続きます。






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