大樹寺
愛知県岡崎市鴨田町
多宝塔
松平歴代当主墓所
初代 親氏
7代 清康
8代 広忠
本堂
松平家・徳川将軍家の菩提寺として名高く、 成道山松安院と
し、大樹寺は、文明7年(1475) 松平4代当主〜松平親忠(家康から5代前の先祖)の開基で、成道山 松安院として創建しました。
開山勢誉愚底上人は、松平親忠に本尊阿弥陀如来 光背に千仏を宿す 一光千体仏として、円満と清浄の信心を起こすと説いて浄土の奥義、結縁五重を相伝し、浄土宗五重相伝の根源道場として篤く信仰しました。
その後も松平宗家の栄枯盛衰を見届け、松平元康(徳川家康)19歳の時、 桶狭間合戦により、
今川義元が織田信長に敗れたので身の危険を感
じ、決死の覚悟で脱出して大樹寺に逃れたものの、ほどなく敵兵に囲まれ、登誉上人に先祖の
墓前で自害すると覚悟のほどを表わすと、
登誉上人は、「厭離穢土欣求浄土」 【おん(えん)りえど ごんぐじょうど】の言葉を用いて、
戦国乱世を住みよい浄土にするのが貴殿の役目
であると翻意させ、元康はこの八文字を終生座右の銘と、戦場での徳川の旗頭としました。
また、元康を狙う一隊が大樹寺を囲んだ際、
多くの僧が三河兵と共に巨体の体躯を持つ"祖洞和尚が門のカンヌキを引き抜いて打って出て、
修羅の如く戦い、敵を退散せしめました。
元康はこの閂(カンヌキ)を後に立志開運 「貫木神」と命名し、江戸時代を通じて大切に安置しました。
家康は遺言に際し、
遺骸は久能山
葬儀は増上寺
位牌は大樹寺に納めよとしました。
多宝塔
松平清康(家康の祖父寄進)
松平歴代当主墓所
初代 親氏
7代 清康
8代 広忠
本堂