源義経 像
元暦元年/寿永3年2月7日(1184年3月20日) 一ノ谷の戦い。
源義経ら源氏軍が「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏に圧勝
〜平家を討伐せよ〜以仁王の令旨により、全国の源氏に向けて発せられた令旨により、源氏勢力の先駆けとなった源義仲(木曽義仲)の勢いと奇策に翻弄された平家軍は、倶利伽羅峠の戦い以来連敗を喫し、ついには都落ちとなって九州に逃れました。
ただ、入京した義仲の軍勢の乱暴狼藉が目に余り、次第に支持を失い、平家も態勢を立て直すと備中、水島の戦いで義仲軍を破りました。
後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ることを察知した義仲に幽閉される事態となります。
後白河法皇による密使により立つ意志を固めた頼朝は、弟の範頼と義経を召します。
宇治で義仲を破り、さらに頼朝の派遣した軍勢は京に入りました。
1184年(寿永3年)2月4日、頼朝の命により、源義経が約1万、源範頼には4万6千の兵を与えられ、総勢約5万6千の軍勢を率いて、京都から福原へと出陣します。
源氏軍は2軍に分かれ、義経軍は丹波路を、範頼軍は西国街道を進み、2月5日、摂津国に到着します。
一方、平家軍は、摂津国と播磨国の境にある一ノ谷に(現在の神戸市須磨区付近)軍勢をわ集結させていました。
平家が陣営を構えた一ノ谷は、前面に海、背後には絶壁の崖となっており、東側は陣営、西側は細い道が1本通っているだけの閉鎖的な地形だったことから、防御に絶対的な自信を持っていたのです。
しかし、合戦の前日、平家軍のもとに後白河法皇の使者が訪れ、後白河法皇から和平勧告が出たことが伝えられると、これを信じた平家軍は油断してしまいます。
摂津国に到着していた範頼軍は、「生田の森」(現在の神戸市にある生田神社の森)へ南下した一方、義経軍は、2月7日の早朝、精兵70名ほどの騎馬隊を引き連れて一ノ谷の裏山である「鵯越」に陣を構え、ついに一ノ谷の戦いが開戦します。
戦いが始まったものの、源氏軍は、堅固な陣を敷く平氏軍をなかなか攻め落とせずにいました。
そこで源義経は、地元の猟師から聞いた「鹿も四つ足、馬も四つ足」という言葉とともに、鵯〜(ヒヨドリ)しか降りられないような絶壁を騎馬で駆け下り、平家軍の背後から急襲を仕掛けます。これが有名な「鵯越の逆落とし」です。
背後の崖から攻撃を受けた平家軍は大混乱に陥ります。
その混乱に乗じて源氏軍は火を放ち、海側に逃げ惑う平氏軍に対し、範頼はここぞとばかりに総攻撃を命じます。
この状況を見た平家軍の総大将だった平宗盛は敗戦を悟り、幼い安徳天皇や「建礼門院」(安徳天皇の母、また平清盛の娘)らを連れ、四国、屋島へと逃れました。