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本多平八郎忠勝 像 (愛知県岡崎市 岡崎公園)
戦国最強の武将の呼び声もあり、大小57回の戦に出陣し、かすり傷ひとつ負わなかった本多忠勝。
負け知らずの武勇で戦場を駆け、徳川家康の天下取りに大きく貢献した本多平八郎忠勝は、松平譜代の家臣、本多忠高の子として 1548年 天文17年に岡崎の北に位置する西蔵前城で生まれました。
徳川家康(当時~松平元康)が烏帽子親となって13歳で元服した忠勝は、今川氏の人質だった徳川家康が出陣した桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城の救援で初陣を飾ります。
この戦いの後、今川義元が織田信長に敗れて戦死すると、家康は義元の弔いに動かない今川の後継者、氏真を見限り、故郷の岡崎で独立に動き出します。
さらに敵国だった尾張の織田信長と同盟を結ぶため、忠勝は清洲へと向かう家康の供を果たします。
この時 結んだ家康と信長の同盟は、信長が本能寺で倒れるまで守られ続けました。
1563年 永禄6年、三河一向一揆が勃発すると、忠勝は、本多家が代々一向宗徒だったことから、母に浄土宗への改宗を懇願し、これ以降、本多家は浄土宗門徒となりました。
家康の懸念を払拭した忠勝は常に家康の側にあり、一揆勢を散々蹴散らし、本多の長槍と恐れられました。
その後、一向一揆を鎮めた家康は、三河平定を進め、遠江へ進路をとります。
掛川城に籠る今川氏真に和議を説き、かつての太守、今川家を滅ぼすことを善しとしなかった家康は、氏真 正妻の実家である小田原 北条家へ送り届け、大井川以西の遠江一円を支配するに至りました。
大井川以西を領すると、盟約を結んだ甲斐の武田信玄と直接 領域を境にする様になり、次第に衝突が増え、ついに 盟約の破棄、武田信玄との戦いが本格的に始まります。
2に続きます。