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源範頼 墓所
静岡県伊豆市修善寺
寿永3年(1184年)10月、源頼朝より、3万もの大軍を預けられた範頼は鎌倉を発ち、京から中国、九州へと渡り、平家に味方する勢力の切り崩しにかかります。
瀬戸内海に強い勢力を持つ平家に対して兵糧、馬の欠乏に苦しむ範頼は度々 進軍を留めざるを得ずにいましたが、大軍進軍の効果もあり、平家方だった豊後国(現在の大分県)の豪族、緒方惟栄を味方に引き入れたことにより船団の確保に成功すると、範頼は軍勢を九州に上陸。
筑前国(現在の福岡県)葦屋浦で戦いに勝利して大宰府を押さえたことにより平家の退路は絶たれたことになります。
葦屋浦の戦いから10日あまり、四国、屋島の戦いで平家が源義経に敗れると、逃れるべき九州の地は既に源氏に抑えられ、残るは平知盛が死守していた長門国(現在の山口県)の彦島のみでした。
寿永3年3月24日、
九州への上陸も叶わず、海上で雌雄を決することとなった平家は、序盤こそ有利に戦いを進めるも、潮流の変化と義経の船の漕ぎ手を射る奇策により形勢は逆転します。
ここで、範頼にとって最悪の事態が起こります。
平家討伐は頼朝も望む戦いの終結でしたが、
頼朝により、厳命されていた清盛の正妻〜二位尼の保護と皇位継承に必要な三種の神器〜宝剣、草薙の剣を海中に失い、何より至上命題であった安徳天皇も海中へ崩御に追い込む結果となってしまいました。
この事態は頼朝による合戦後の戦後処理を著しく変更せざるを得ない結果となり、範頼は頼朝の命により海中に沈んだ草薙の剣の探索をする羽目となります。
範頼の半年に及ぶ必死の探索も結果、草薙の剣は見つからず、平家一門をことごとく海の藻屑とした壇ノ浦の戦いは、源氏にとって戦勝以外、得るものの少ない戦いとなりました。
6に続きます。