
潮海寺
菊川市潮海寺
潮海寺は、奈良時代の聖武天皇治世下の頃(西暦750年 天平年間)、行基によって創建されたと伝わります。
平安時代に入り、奥州平定を成した征夷大将軍、坂上田村麻呂が帰依して寺領を寄進する等、隆盛を極め、最盛期には寺領3千石、75坊を数える遠州地方きっての名刹となりますが、その後 数々の戦乱に巻き込まれ、多くの伽藍が焼失しました。
徳川家康が遠州を支配下に置くと、荒廃していた本堂等を再建するように家臣 大須賀康高に命じた記録が残ります。
本堂から薬師奥の院までは、直線距離でおよそ約2キロあり、現在 茶畑となっている地も当時の潮海寺の寺領で、至るところに焼失した寺坊がありました。

本堂

薬師堂

八坂神社
東海道の南に石高に換算すると約3000石相当の寺領を有し、田村麻呂 寄進の七堂もの伽藍に75の坊院と、東海地方でも最大の規模を誇りましたが、度重なる兵火により衰退を余儀なくされました。
潮井戸
潮海寺の東には、潮井戸という潮海寺の名の由来となった井戸があります。



潮井戸は名前のごとく ほぼ塩水のことで、この井戸から汲み上がる水は、海水37パーセント、淡水地下水67パーセントという水質調査が出ています。
菊川は静岡中部地方の内陸部にあたり、一番近い海は遠州灘で、距離にして約15キロ程で、海水が影響しているとは考え難く、これは地中深くに堆積する化石海水が地下水と混ざり塩水となり井戸に含まれると考えられています。
潮井戸は幕末の安政大地震により地層が変化し、北側の地からも噴出する様になりました。
この井戸水は、3年に一度の7月に行われる潮海寺 八坂神社 祇園祭の神事でのお水取りに使われます。

かつての寺領


薬師 奥の院