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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 3月9日 慶応4年 3月9日 幕臣 山岡鉄舟、西郷隆盛と会見





西郷、山岡会見の地碑
静岡市葵区御幸町


3月9日

慶応4年(1968年 )3月9日
西郷隆盛、幕臣 山岡鉄舟と会見


西郷隆盛は、幕末維新の功労者の維新三傑とも称される人物です。


一方の山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と称され、幕末動乱の中で徳川家の窮地を救うべく奔走し、ついには目前となった新政府軍の江戸総城攻撃を参謀として駿府に来ていた西郷隆盛に談判して中止させることに成功しました。


1868年 慶応4年1月3日、前年の大政奉還によって天下の政権を返上した徳川家の息の根を止めるべく、薩摩藩や長州藩それに岩倉具視らを中心とした公卿を加えた倒幕派による王政復古の大号令【クーデター】によって新政府を樹立、さらに、それまで江戸での放火、略奪等の挑発を耐え続けていた幕府も開戦を決意します。 ここで京都で勃発したのが
鳥羽伏見の戦いでした。


幕府軍1万5千に対して新政府軍は約五千と開戦当初は3倍もの兵力差がありながらも、新政府軍は錦の御旗【にしきのみはた、きんき】を翻(ひるがえ)すと状況は一変し、幕府軍は敗れ、将軍 徳川慶喜は江戸に逃げ帰りました。


完全に勢いを得た新政府軍は、鳥羽伏見の戦いから江戸に逃げた徳川慶喜を追討する名目で東征軍を興こし、江戸城総攻撃を1868年 慶応4年 3月15日と決めて軍勢は江戸を目指しました。



山岡鉄舟像
静岡市清水区村松 鉄舟寺



3月9日

東征軍が江戸へ向けて進軍する中、駿府城下に参謀の西郷隆盛をたずねたのが山岡鉄舟でした。


歴史の一大転換期に勝海舟と西郷隆盛の会談がありますが、その先陣として会談の仲介役を果たしたのが山岡鉄舟です。


西郷が倒幕に舵を切る昔、今の幕府の世、国のあり方を説法され、かつて坂本龍馬がすっかり感化され、師弟の絆に結ばれた勝の人となりに西郷も魅了されていたことを思い起こし、その勝が全幅の信頼を寄せて派遣した山岡を西郷も信頼しました。


後日、西郷隆盛は勝海舟に、山岡は命も名も金も要らぬ困った人だと語り、そんな人が居ないと天下の大偉業は成し遂げられないと 伝えたそうです。


明治維新後の山岡鉄舟は、旧幕臣らの救済に奔走し、さらに街道一の大親分と恐れられた清水次郎長を導いて引き立て、彼を社会事業家に転身させるなど、世の大転換期に苦心する者の身の振り方を諭し、さらに、鉄舟が長州閥の井上 馨に言い放った言葉があります。




【 維新の締めくくりは、西郷とおれの二人であたったのだ。】



薩摩、長州、土佐、肥前 、【薩長土肥】維新の勝ち組が明治新政府の要職を跋扈する中、旧幕臣でありながら、西郷隆盛に是非ともと請われ、西郷と10年間の期限の約束で、明治天皇の侍従を務めた山岡鉄舟。

侍従を10年務めた後、皇居を去るにあたり、山岡に勲三等の叙勲が決まり、持参した外務卿の井上馨に、浴びせた言葉があの言葉です。


この前後のやり取り…


勲章を持参した外務卿 井上馨。(井上は勲一等を叙勲していた。)

山岡
返上するから持ち帰れ。


井上
俺も丁稚(でっち)の使いじゃない! このまま帰れるか!

山岡
お前さんが勲一等で、俺に勲三等を持って来るのは間違っていないか?。

勅命と言っても、お前さん達が勝手に決めたことだろう。


【 維新の締めくくりは、西郷と俺の二人であたったのだ。】



俺から見れば、お前さんなんか褌(ふんどし)担ぎじゃねえか。


褌担ぎのくせに、自分より下の勲章を俺のところに持って来るなんて、とんでもねぇ間違いだ。

そう言い放って井上を帰した山岡は、最後まで西郷亡き後の政府からの叙勲を拒否しました。


生前の西郷からは、あまりに癒着の噂の絶えないことから【三井の番頭さん】と嘲笑気味に言われていた彼が、丁稚紛いの政府からの使いに我慢ならなかったのでしょう。



ただ山岡の没後、勲二等旭日重光章が政府から追勲されました。




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