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日本歴史紀行

思い出フォト 102 2020年 3月 戦国時代のきっかけ…とは


旧塩買坂
静岡県菊川市


戦国時代の定義とは…時代区分では、室町時代後期からとされます。

ぼくは京の都を灰にした応仁の乱が大きな
きっかけ になったと考えています。

応仁の乱…
1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱は、室町幕府第8代将軍、足利義政の治世下、室町幕府を支えるべき管領一族の畠山氏と斯波氏の家督争いから次期将軍後継者問題まで絡み、やがて守護大名の細川勝元が東軍、山名宗全が西軍の総大将となり、幕政にほとんど関心を示さない現将軍、足利義政を東軍が取り込み、また、義政の弟、義視を西軍が取り込むという混乱と打算を極め、泥沼化した争いは11年に及び、京の都を灰としました。


この大乱以降、各地で下剋上の世の中となっていきます。

中でも有名なのが、北条早雲公でしょう。
北条早雲(伊勢新九郎盛時)が戦国大名となってゆく きっかけとなる出来事が、現在の静岡県の遠州地方で起こりました。







横地城本丸からの眺め




横地城跡

静岡県菊川市東横地


横地城は、平安時代から応仁の乱の時代までの約400年以上、東遠地方(東遠江)一帯を支配した横地氏が牧之原台地の西麓の標高約100メートルの丘陵の頂上のある本丸が東の城、中の城、西の城、千畳敷と、大きく四つの区画で分かれています。

城郭規模は、高天神を制する者は東海を制すると言われ、徳川家康、武田信玄、勝頼が奪い合う高天神城と遜色ないものです。





作市坂石碑
中の城、二の丸、本丸に続く坂








二の丸 横地神社




二の丸 横地神社本殿







珍名で知られる堀切 金玉落としの谷


横地氏の発祥

1051年 永承6年、前九年の役で奥州に出陣する源氏の御曹司、八幡太郎義家が遠江 見附で、長雨により長期の逗留を余儀なくされていた時に、土地の長者 相良太郎光頼の娘を寵愛し、翌年に生まれたのが太郎左衛門家永でした。



横地太郎家永の墓

源 義家は、太郎左衛門家永を庶子として認め、東遠地方に広大な所領を与え報いました。

以来、横地氏は代々 東遠の名属として続くことになります。

保元の乱では、後白河天皇側につき、源平合戦では源 義経に味方したりと、勝ち組となる側に味方する強運も持ち合わせました。




本丸 横地城跡 碑








横地城本丸

1476年 文明8年、
京で勃発した応仁の乱が収束に向かう頃、東遠で戦いの火の手が上がりました。

駿河国守護の今川義忠と遠江国の守護 斯波義廉の対立が激化します。

当主 横地太郎左衛門秀国は同族の勝間田氏と共に斯波氏方について挙兵するも、今川義忠と伊勢新九郎盛時(北条早雲)に攻められ、落城しました。

当主 秀国は討死し、嫡子 太郎左衛門元国は落城の際に落ち延び、甲斐の武田信虎のもとに身を寄せますが、再起は叶いませんでした。

横地氏の縁者は全国に逃れ、散り散りとなりますが、残党が凱旋する今川義忠を塩買坂で襲撃して義忠を討死させ、一矢を報いました。

当主 今川義忠を失った今川家中は大混乱となり、後継者争いが激化し、伊勢新九郎盛時(北条早雲)が介入することになります。













遠江守護 斯波義廉 邸跡

静岡県菊川市 東横地

横地城には、遠江の守護大名で管領 斯波本家当主、斯波義廉の邸宅がありました。

斯波義廉は本家当主の座と守護大名の座を養子として後継ぎに据えられた斯波義敏と争い、この争いは足利将軍家の後継者、さらに管領 畠山氏の後継者争いが加わり、やがて 天下の大乱。応仁の乱へと発展しました。

義廉は正妻が西軍の総帥、山名宗全の娘ということもあり、西軍の雄として軍勢を率いて戦います。

足利義政と折り合いの悪かった義廉は守護の座を剥奪されますが大乱の最中で従わず、守護と管領の座を手放さずにいると、対陣する東軍の細川勝元は、義廉の領国である遠江の撹乱を今川義忠に求めます。

遠江奪取の機会を得た今川義忠は軍勢を率い遠江へ侵攻、守護の斯波義廉に従う立場をとっていた横地秀国は今川義忠と戦いますが、討死しました。

今川義忠は凱旋の帰路 横地の残党に襲撃され還らぬ人となりました。

斯波義廉の行方は、越前に向かったとされていますが、不明です。


戦国時代の当来を本格的に知らしめたのは、室町幕府九代将軍 足利義尚に仕えた申次職、北条早雲 (以下~伊勢新九郎 盛時)でした。


では、幕府の職についていた盛時がどういう経緯で戦国大名と変貌したのか。


それは、京で応仁の乱が続く1476年 文明8年、駿河国守護の今川義忠が東遠江を地盤にした横地氏と同族の勝間田氏と戦った、塩買坂の戦いでした。



塩買坂
静岡県菊川市




夜襲などで横地氏、勝間田氏を破った今川義忠は、凱旋途中に横地氏の残党に塩買坂で戦闘になり、流れ矢に当たり討死しました。

当主を失い今川家中は、6歳の遺児 竜王丸を推す家臣と同族で四代当主 今川範氏の子、小鹿範満と範満を推す家臣との間で後継者争いが激化、盛時は竜王丸の母で盛時の妹にあたる北川殿の仲介依頼を受け、駿河に下向し、今川の後継者争いに介入することになります。










正林寺は、塩買坂の戦いで無念の討死した今川義忠の菩提寺として塩の道沿いに建立されます。

この今川義忠、あの今川義元の祖父にあたります。










塩買坂古戦場石燈籠




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