鎌倉幕府 2代執権 北条義時の墓(右側)
静岡県伊豆の国市 北條寺
元仁元年6月13日(1224年7月1日)、
源氏3代が滅んだ後の鎌倉幕府を事実上支配した二代執権 北条義時がこの日、急死しました。
北条義時は初代執権、北条時政の次男で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の夫人となった政子は、姉にあたります。
幼少より江間の館に育ち、江間小四郎と称しました。義兄の源 頼朝の打倒平家の旗挙げに父、時政が加わることにしたため、兄の宗時と共に
頼朝に従い、紆余曲折を経ながらも結果、大功を成し、頼朝からは絶大な信頼を得て、鎌倉幕府創設以来支え続けました。
やがて初代、頼朝が死ぬと、北条氏は幕府内を牛耳る様になり、邪魔な御家人達を次々と排除し始めます。その過程で2代頼家も殺さざるを得ず、3代将軍実朝も暗殺の死により、源氏
の正統後継者が絶えると、都より頼朝の姉の曾
孫にあたる藤原頼経を将軍に迎え、自らは父を追い落として2代執権となり、幕府内の地位を盤石なものとします。
やがて治天の君、後鳥羽上皇は義時の専横を憤り、承久三年(1221年)義時を討とうとされて軍勢を起こされました。
世にいう承久の乱です。
義時は、姉、政子による御家人を一つにさせる説得により結束させ、承久の乱に勝利します。
義時は承久の乱から3年後の元仁元年6月13日に急死します。後妻、伊賀氏の毒殺ともいわれます。