
1189年6月15日(文治5年閏4月30日)
衣川の戦い
源義経追捕の宣旨を受け、藤原泰衡が衣川館の源義経を襲い源義経は自害。
源氏嫡流の源義朝の九男で、生後間もなく父を平治の乱敗走からの縁者、長田忠致の裏切りで失い、母 常盤御前が平家の捕縛、平清盛の気まぐれによる助命を経て、鞍馬山での武者修行、奥州平泉の藤原秀衡の庇護、兄、源頼朝の平家打倒に加わり、一の谷、屋島の戦いで平家一門を翻弄し、壇ノ浦でついに平家を滅ぼした稀代の英雄、源義経。
鮮やか過ぎる活躍は、後白河法皇の謀略に利用され、兄、頼朝に疑念を抱かれ、終には逐われる身となり、自らを庇護してくれた藤原秀衡の許へ逃れるも、秀衡は間もなく亡くなり、秀衡の遺児、泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を襲撃して亡き者にしました。
平家一門無き後の狙いは王国、平泉でしたが、
天才軍略家でもあった義経をなくした平泉はもはや頼朝の懸念ではなくなり、頼朝は大軍を擁して奥州征伐し、これで日本の武門を統一したことになります。