安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)
山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
1181年 治承5年1月14日、重い病床にあった高倉上皇(安徳天皇の御父上)が崩御しました。
清盛は高倉上皇がもう助からないと上皇の崩御を見越して、中宮〜徳子(建礼門院)を後白河法皇の後宮に入内させるべく計画をしてたものの、徳子は出家の意志を曲げなかったので断念します。
蜜月だった清盛と後白河法皇の関係は破綻しており、この冷戦状態が清盛亡き後の平家一門に致命的な影響を与えることになります。
老齢ながら清盛の政治活動は盛んで、高倉上皇の崩御から間もなく、源頼朝の挙兵を中心とした東国の武力蜂起に対処すべく、畿内五カ国に加え、伊勢、伊賀、近江、丹波の総勢九カ国に、兵士の調達、兵糧米の強制徴収を可能にする惣官職に平宗盛を任命します。
これは、軍事指揮官として平宗盛を筆頭に、一門の軍事体制を組織化したものですが、清盛にはもう時間が残されていませんでした。
清盛は頭痛に悩まされる日々が続きます。
頭痛から始まった清盛の体調不良は発熱へと悪化し、平家物語によると、【身中熱する事、火燃ゆるが如し。】とあり、邸宅の板の間に木桶に入った清盛に水をかけるも一瞬で蒸発してしまう有り様でした。
清盛は一週間もの間、高熱に苦しんだ挙げ句、治承5年閏2月4日、ついにこの世を去ります。
清盛は臨終の前に、葬儀は無用〜供養したくば、頼朝の骸を墓前に供えるべし。と言い遺し、頼朝への恩情を悔いました。
未だ3歳に満たない安徳天皇は、最大の後ろ盾を失うことになりました。
9に続きます。